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洋画の黎明期、国沢新九郎の出現

国沢新九郎「春」高知県立美術館蔵

幕末から明治期にかけては全国的に西欧絵画が広がっていき、高知においては、国沢新九郎(1848-1877)が西欧絵画の先駆者として登場する。国沢は、高知城下の藩士の長男として生まれ、明治2年に坂本龍馬の海援隊が所持していた夕顔丸の船将として函館戦争に参加した。翌3年には藩留学生としてイギリスに渡り、法律修行にかえて絵画を志し、帰国後に東京で洋画塾・彰技堂を起こした。この画塾では、本多錦吉郎、浅井忠、守住勇魚らが洋画を学んでいる。国沢の没後は本多錦吉郎が引き継ぎ、高知からこの画塾に学んだ者には、のちに「土佐洋画界の父」と称される楠永直枝や、上村昌訓らがいる。国沢はわずか30歳で没したが、彼の出現により土佐の幕末絵画はその質を変えていくことになる。

国沢新九郎(1848-1877)
弘化4年高知市小高坂生まれ。国沢四郎右衛門秦好古の長男。姓は秦、名は好良。幼名は熊太郎、のちに泉。維新後は新九郎と称した。慶応3年、父の死去により土佐藩陸軍第一大隊二番小隊司令となり、翌年に陸軍所指南役などを経て海軍へ転じて海軍局頭取となった。明治2年、土佐藩の軍艦・夕顔丸の船長をつとめ函館戦争に参加した。明治3年、法律の勉強のためにイギリスに留学するが、方向転換してジョン・エドガー・ウィリアムスに西洋画を学んだ。留学中に「西洋婦人像」などを描いたが、大半が太平洋戦争で焼失した。帰国後、東京で画塾・彰技堂を開き、持ち帰った洋画技法書、参考図書、美術標本、画材などを備えて後進を育成、本多錦吉郎、浅井忠らが学んだ。明治8年、彰技堂で我が国初の洋画展覧会を開催、高橋由一、荒木寛畝らにも大きな影響を与えた。明治10年、30歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(国沢新九郎)

楠永直枝「首にヘビを巻く女」高知県立美術館蔵

楠永直枝(1860-1939)
万延元年高知市生まれ。陶冶学校から大阪に出て啓蒙舎で学んだ。明治14年、上京して国沢新九郎の創設した画塾・彰技堂で本多錦吉郎に学んだ。明治18年、文検図書科教員の免許状を得て、高知師範学校三等助教諭、ついで高知尋常中学校へ転任して大正5年まで勤めた。彰技堂での同窓である上村昌訓とともに高知県洋画界の先駆者となり、「土佐洋画界の父」と称された。多くの教え子がおり、山脇信徳、橋田庫次、加賀野井久寿彦、岡崎精郎、西内清顕、中村博、若尾瀾水、公文菊僊、田岡秋邨、山六郎、寺田寅彦らがのちに画家として活躍した。「ライサン」の愛称で親しまれていた。昭和14年、80歳で死去した。

上村昌訓(1865-1925)
慶応元年宿毛市生まれ。翠山と号して毛筆画も描いた。明治13年に上京して彰技堂で楠永直枝とともに本多錦吉郎の指導を受けた。明治20年、帰郷して高知県尋常中学校の図画、地理の助教諭となった。高知では楠永直枝とともに土陽美術会高知支部の会員として洋画振興につとめた。美術教諭として小学生用の図画教育を著している。小学生だった石川寅治を個人的に指導したことでも知られる。大正14年、61歳で死去した。

高知(20)画人伝・INDEX

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館館蔵品目録、海南先哲画人を語る




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