土佐藩の御用絵師・池添楊斎(1791-1841)は、弘瀬洞意(絵金)の師匠として知られている。池添家は代々絵を描いており、楊斎の養父・池添美光は江戸に出て駿河台狩野四代・狩野洞春美信の門に学び、藩の絵師をつとめた。美光の末弟・金兵衛(氏助)は町絵師で、絵馬や芝居絵などを描き人気があった。美光の兄・儀七は鋳掛け師をしていたが、絵も描き、奇人として伝わっている。
池添楊斎(1791-1841)
寛政3年生まれ。通称は安蔵、名は美雅。土佐藩のお抱え絵師。池添美光の養子で、本姓は窪田といった。天保3年縫殿助となり、天保5年剃髪して秀輔と改め、絵師職人を支配した。観楊斎と号して城下掛川町に住んでいた。観楊もしくは楊斎と呼ばれ、特に絵金の師匠として知られている。天保5年に潮江の天満宮に奉納した「天満宮砂持ちの実写」で画名を高め、天保7年には君命により「御神祭絵図」を制作、その画は山内家に伝わっている。門人には弘瀬洞意(絵金)のほか、忍斎と号した藩士の尾池敬愛、赤野の高橋紋右衛門光房らがいる。天保12年、51歳で死去した。子の美春は桐斎と号して画業をはじめたが、嘉永元年に22歳で死去した。池添家はその後岡崎健蔵の二男・美秀が継いで水道町に住んでいたが、明治17年に一家をあげて富山県に移住した。
池添美光(1755-1822)
宝暦5年生まれ。池添楊斎の養父。土佐藩の絵師。はじめは中山高陽の門人・林南唐について画を学んだ。のちに南唐と共に江戸に出た際、駿河台狩野四代・狩野洞春美信の門に入って画を学び、設色の法を会得して門下の高弟と称された。文政5年、68歳で死去した。
池添儀七(不明-不明)
池添美光の兄。池添楊斎は甥。鋳掛け師をしていたが、絵も描いた。鋳掛け師とは、壊れた鍋釜などを修理する職人のことで、儀七の鋳掛けは天下一品とされ、特に大物の修繕にかけては土佐で右に出るものはないといわれた。奇人として知られ多くの逸話が残っている。ある時、城下の豆油店が、大釜が少しだけ痛んだので儀七を呼んで修理してもらったところ、修理代は白銀一枚だという。あまりにも高いので、店の番頭が「大破なればともかく、これしきの小痛みに白銀とは法外だ」と抗議した。すると儀七は「儀七という男を知らんか、儀七は金のある大家だから高くとってるんだ。貧しい家なら、ただでも直す。ぐずぐず言いなさんな」と言い放った。それを聞いた主人は感心して望みの金を渡したという。
尾池忍斎(1814-1855)
文化11年生まれ。名は敬愛。前名は弾之助。土佐藩士。歌人・尾池春水の孫。はやくから池添楊斎について画を学び、中西半隠に書を習った。安政2年には日光東照宮の本坊などの修復に加わったが、病により、同年、42歳で死去した。
高知(4)-画人伝・INDEX
文献:土佐画人伝