高松藩の家老だった木村黙老が著した『聞ままの記』によると「田中松峯、名ハ正路、號を五峰といふ醤なり京師に遊学して大雅堂(池大雅)に書画を学ふ、當国の漢画ハ我始祖なりといへり」とあり、田中松峯が讃岐南画の祖とされているが、松峯がのちの讃岐南画に影響を残したかは不明で、実質的には松峯よりもやや後に南画家として知られるようになった長町竹石が讃岐南画の祖と言える。竹石は多くの門人を育て、讃岐南画界に大きな影響を残した。享和3年に高松藩八代藩主・松平頼儀に従って江戸に出た時に画名を高め、紀伊の野呂介石、黄檗僧・愛石とともに「三石」と称された。門人には、佐々木雲屋、手塚鴎盟、中川馬嶺らがおり、かれらの門人たちが明治後期の南画衰退期まで、讃岐南画の流れを牽引した。
長町竹石(1757-1806)ながまち・ちくせき
宝暦7年高松城下南新町生まれ。家業は薬種商。名は徽、字は琴翁、通称は徳兵衛。号ははじめ黄陵、琴軒、文暉、のちに竹石と改めた。はじめ建部凌岱について画法を学び、池大雅に私淑し、のちに沈南蘋、藍田叔の画法を修得したとされる。高松藩八代藩主・松平頼儀の知遇を受け、のちに江戸に出て名声を高め、海外にも聞こえたという。文化3年、49歳で死去した。
鈴木三橋(1768頃-1825)すずき・さんきょう
明和5年頃生まれ。名は韶、字は九成、通称は理平。別号に梅顛がある。詩をよくし、長町竹石と交友して画もよくした。古書画を多く所蔵し、書画の鑑定にもすぐれていた。文政8年、58歳で死去した。
竹内雲崖(不明-不明)たけうち・うんがい
文化年間の綾歌郡羽床村の人。名は長明、字は雪溪、通称は又四郎。別号に南崖がある。射術が得意で徳川幕府に仕えた。画を長町竹石に学び、出藍の誉ありと称されたという。
青山石泉(1770頃-1819)あおやま・せきせん
明和7年頃生まれ。名は樵、字は雲隣、通称は孫兵衛。画を長町竹石に学び、山水、人物をよくした。文政2年、50歳で死去した。
漆原漆園(1771頃-1824)うるしはら・しつえん
明和8年頃生まれ。木田郡三谷村の人。名は寧景、字は九齢。画を長町竹石に学び、山水をよくした。文政7年、54歳で死去した。
手塚鴎盟(1774-1833)てづか・おうめい
安永3年生まれ。鶴羽の人。名は光鑑、字は文哉。別号に鹿溪がある。高松藩主の侍医をつとめた。画を長町竹石に学んだ。天保4年、60歳で死去した。
谷川青野(1777-1820)たにかわ・せいや
安永6年生まれ。木田郡前田村の人。名は復、字は春臣、通称は太喜三。画を長町竹石に学び、書もよくした。文政3年、44歳で死去した。
西原竹屋(1780頃-1826)にしはら・ちくおく
安永9年頃生まれ。名は章、字は文卿、通称は吉兵衛。川崎舎氏七世。画を長町竹石に学び、山水をよくした。最も墨竹を得意とした。文政9年、47歳で死去した。
川西東原(1780頃-1839)かわにし・とうげん
安永9年頃生まれ。大川郡石田村の人。名は徴、字は太丸、通称は仙右衛門。旧姓は廣瀬。画を長町竹石に学んだ。天保10年、60歳で死去した。
村尾石溪(1783頃-1845)むらお・せっけい
天明3年頃生まれ。通称は作兵衛。西原竹屋の弟。西原を出て村尾氏を継いだ。画を長町竹石に学び、山水、蘭竹をよくした。弘化2年、63歳で死去した。
香川(5)-画人伝・INDEX
文献:高松市歴史資料館収蔵資料目録~美術工芸資料~、描かれし美の世界、讃岐画家人物誌