川井鶴亭(1797-1859)は田口森蔭の直弟子とされ、藩政においては勘定奉行にまで出世した「切れ者」と伝わっている。下北の田名部の檜山が焼けたときには、江戸から駆けつけ、植林輪伐法の制定に手腕を発揮して山を救ったというエピソードもある。
作品はあまり残っていないが、鍬形蕙斎の「江戸一覧図」を基に盛岡城下を描いた版画「盛岡城下図」や「俳聖図」「美人図」などが知られている。作図も手がけ、安政2年の「南部領内図」(盛岡市中央公民館蔵)には方位と緯度が記入されている。
掲載の「美人図」は「寒山拾得図」を美人2人に見立てた作品で、文章を一心に読む女性と、脇からそれを覗き込む女性が描かれている。帯の文様に文字を描きこむなど、遊び心がみられる。
川井鶴亭(1797-1859)かわい・かくてい
寛政9年生まれ。通称は小平治といい、景貞、子暁と名乗った。別号に春歩、閬風庵がある。天保12年に家督を相続した。嘉永元年には勘定奉行となり藩の財政再建に尽力した。絵は田口森蔭に学んだとされる。春歩の俳号で俳句もたしなみ、一枚摺りの俳句に挿絵も描いている。安政6年、63歳で死去した。
岩手(15)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、藩政時代岩手画人録