盛岡についで繁栄した花巻では、画業も盛んであり、その礎を築いたのは小野寺周徳(1759-1814)とされる。花巻の医師の家に生まれた周徳は、江戸に出て医学の修業中に谷文晁に学んだと伝わっており、寛政6年には、上野の寛永寺で谷文晁が中心となって開かれた観賞会に、藩主・南部利敬所蔵の「明戴文進重嶂楼閣巨幅」を出品している。門人の八重樫豊澤に、さらにその門人の橋本雪蕉を加えて「花巻の三画人」と称されている。
周徳の画名を高めたのは、文化6年の花巻城改修の際に、襖絵や屏風を描いたことによる。「花鳥図襖絵」8点と「龍図屏風」一双がその時の作品で、緻密な画面構成と丁寧な彩色が特徴である。花巻城改修の際大工奉行をつとめた上田弥四郎が著した「小野寺子元哀辞」には、藩家老の奥瀬氏から支援を受け藩主利敬の近侍に加わったこと、医師の周徳には薬を求める数百戸の患者がいたことが記されている。
小野寺周徳(1759-1814)おのでら・しゅうとく
宝暦9年生まれ。花巻城出入りの医師・立民義長の子。名は貞治、立為。別号に豊水がある。花巻の儒学者・及川華山に書、儒学、漢詩を学んだ。寛政4年から3年間江戸に滞在し医学の修業をしている。絵は20歳代からはじめているが、江戸滞在中に谷文晁に絵を学んだと伝えられている。寛政9年家督を相続した。診察の合間に絵筆をとり、文化元年には「六歌仙図」や「雲龍図」を制作した。文化4年行なわれた花巻城本丸の改修工事で、障壁画を制作した。絵のほか、書家としても知られている。文化11年、56歳で死去した。
岩手(7)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸、藩政時代岩手画人録、盛岡南部家20万石の美、宝裕館コレクション