日本の水彩画は、幕末の安政年間にイギリスから来日したチャールズ・ワーグマンが、高橋由一や五姓田義松らに水彩技法を伝えたことに始まるが、当時の水彩画は、あくまでも油彩画の修練としてとらえられていた。その意識に変化があらわれはじめるのは、明治22年にイギリス人画家アルフレッド・イーストが日本で展覧会を開催したころからで、その後も相次いでイギリスを代表する水彩画家たちが来日して展覧会を開いたことから、日本の画家たちの水彩画に対する意識が大きく変わり、三宅克己、大下藤次郎、丸山晩霞ら水彩画を専門とする画家たちが誕生する。その後、明治後期から昭和前期にかけて水彩画は隆盛期を迎えることになる。
茨城県行方郡大生原村(現在の潮来町大賀)に生まれた小堀進は、葵橋洋画研究所に学び、その後は教員をつとめていた。水彩画家として活動をはじめるのは水彩画が隆盛期を迎えていた昭和7年からで、この年の白日会展と日本水彩画会展に水彩画を出品、またその翌年には二科展にも水彩画を出品した。昭和15年には画業専心を決意して教員を退職し、荒谷直之介、春日部たすく、渡部菊二ら日本水彩画会の委員8名の同志で「次代の水彩画の確立」を目指して水彩連盟を結成した。
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水彩連盟は昭和22年の第6回展から公募団体として日本水彩画会から分離・独立し、小堀は、この年から27年まで連盟事務所を担当した。昭和17年には文展に初入選し、戦後は日展、新日展、改組日展と出品を続け、官展水彩画家として活躍した。昭和24年から無鑑査、招待出品となり、昭和26年に初めて審査員をつとめ、昭和33年に評議員、昭和44年には理事となり、翌年改組第1回日展に出品した「初秋」により日本芸術院賞を受賞、昭和49年には水彩画家として初めて日本芸術院会員となった。
小堀進(1904-1975)こぼり・すすむ
明治37年茨城県行方郡大生原村(現在の潮来町大賀)生まれ。千葉県立佐原中学校を卒業後、大正11年赤坂溜池の葵橋洋画研究所に学んだ。翌年から郷里の小学校を振り出しに、昭和15年まで教職をつとめた。昭和7年白日会展、日本水彩画会展に、翌年二科展に水彩画を出品して入選した。昭和9年白日会展白日賞受賞、同年日本水彩画会会員に、昭和11年には白日会会員となった。昭和15年荒谷直之介、春日部たすくらと水彩画の革新を目指して水彩連盟を結成。昭和17年第5回文展に初入選、戦後は日展を中心に活動し、昭和33年に日展評議員、昭和44年に日展理事となった。昭和45年日本芸術院賞を受賞、昭和49年日本芸術院会員となった。また、昭和45年から名古屋芸術大学教授をつとめた。昭和50年、71歳で死去した。
茨城(31)-画人伝・INDEX
文献:北関東の近代美術、開館20周年記念 茨城県近代美術館所属作品、茨城県近代美術館所蔵作品図録 1997