下総国豊田郡三坂新田(現在の茨城県常総市)に生まれた猪瀬東寧(1838-1908)は、19歳の時に画家を志し、故郷を出奔して京都に出た。京都では公卿姉小路公知の家僕として仕え、翌年公知の世話で日根対山に師事し、明末・清初の古名画の粉本模写、写生などに取り組む一方で、藤本鉄石、遠山雲如について画論を学んだ。
慶応4年、江戸に出て神田久右衛門町に居を定めたが、間もなくして火災に遭い、下谷御徒町の摩利支天横丁に移り住んだ。ここには大沼枕山、奥原晴湖、川上冬崖ら多くの文人が住んでおり、彼らと交流するとともに、福島柳圃、山本琴谷に学んだ。
東寧の画名を高めたのは、明治3年に新築落成したばかりの東両国の中村楼で開催した「猪瀬東寧書画会」で、会の後援者には師の福島柳圃をはじめ、同郷の服部波山や古河出身の奥原晴湖らが名を連ね、会は盛況をきわめた。
交流のあった小室翠雲によれば、東寧は芝居見物などを好み、磊々落々として古禅僧のような風貌で、純情にして飾り気のない性格だったという。また、各地を旅行し、求めに応じて筆をとったが、「遊歴すれども出稼ぎはせず」というように清貧に甘んじた生活だったという。
猪瀬東寧(1838-1908)いのせ・とうねい
天保9年下総国豊田郡三坂新田生まれ。通称は忠五郎、名は恕。初号は専齊。別号に晩香堂、超光騰霧楼がある。安政3年生家を出奔し、安政5年京都に上り翌年日根対山に師事した。文政2年郷里に帰り、慶応4年江戸に出て神田に居住し、同年から東寧に改号した。明治3年東両国の中村楼で画会を開き画名を高めた。その後一時帰郷し、明治11年に再び上京、下谷御徒町に画室を構え、超光騰霧楼と名付けて画作や詩作に励み、その後晩香堂画塾を開き、多くの門人がここに学んだ。明治14年第2回内国勧業博覧会で褒状。明治19年東洋絵画共進会で一等褒状。明治23年第3回内国勧業博覧会で褒状。明治30年川村雨谷らと東京南画会を結成した。著作に『名蹟撮要』がある。明治41年、71歳で死去した。
茨城(16)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、北関東の文人画