北海道出身の横山松三郎(1838-1884)は、幕末期に写真術や西洋画法を学び、初めて江戸城を撮影するなど、記録写真師として活動するとともに、究極の写実表現を追究して、写真と油絵を融合させた「写真油絵」を考案、多彩な表現活動を展開し、写真、洋画、いずれにおいても革新的な足跡を残した。
天保9年、エトロフ島に生まれた横山は、少年のころ函館に移り住み、文久元年に函館に入港してきたロシア艦隊に乗っていたロシア人・レーマンに西洋画法を学んだ。さらに写真と石版を下岡蓮杖に学び、明治6年には写真館「通天楼」に洋画塾を併設、下谷の池の端に開校した。明治9年から14年にかけて、陸軍士官学校で技術研究に励み、海外で発明された様々な写真技法を体得し作品制作を行なった。
明治13年には、写真と油絵を融合させた「写真油絵」を考案した。これは、印画紙の表面の感光乳剤の層を薄くはがし、裏から油絵具で着彩するというもので、当時の写真技術では色が再現できなかったため、その欠点を油絵で補うべく考えられたものだった。翌年陸軍士官学校を辞して写真石版社を設立、「写真油絵」を完成させている。この技法によって「丁髷の男と外国人」(掲載作品)などの肖像画を描いている。
また、江戸城を初めて写真に撮った人物としても知られている。明治4年、当時、制度局取調御用掛だった蜷川式胤は、皇城と改称され荒廃が進んでいた旧江戸城の姿を後世に残すべく横山に撮影を依頼した。この時、横山が撮影した写真は、鶏卵紙という印画紙に焼き付けられ、高橋由一によって彩色が施され、「旧江戸城写真帖」として東京国立博物館に収蔵されている。また、蜷川式胤著「観古図説 城郭之部」にも納められている。
逸話の多い人で、自らの死期も悟っていたとされる。明治17年に没することになるが、その日、自らの死を悟った横山は、函館に帰って親族に会い、その後東京に戻って門人を集め「もうすぐ私は死ぬ、死んだらよろしく」と言い残してから一晩痛飲、その夜新しい着物に着替えて床につき、翌朝亡くなっていたという。
横山松三郎(1838-1884)
天保9年千島エトロフ島生まれ。弘化3年函館に移り住んだ。ペリーのアメリカ艦隊、プチャーチンのロシア艦隊入港時に彼らの写生現場をみて西洋画法への関心を抱いた。さらに文久元年ロシア人画家・レーマンの助手となり西洋画法と写真術を学んだ。その後、幕府の建順丸に便乗して上海に渡航した。元治元年、横浜の下岡蓮杖を訪ねて、写真術と石版術を習い、慶応4年、江戸両国に写場を設立。明治4年旧江戸城を撮影。明治6年上野不忍池畔に私塾を開いた。明治9年から陸軍士官学校で石版術と写真術を指導した。明治11年軽気球の飛揚を撮影。明治13年に写真と油絵を融合させた「写真油絵」を考案。翌年陸軍士官学校を辞して写真石版社を設立した。明治17年、47歳で死去した。
北海道(18)-画人伝・INDEX
文献:140年前の江戸城を撮った男-横山松三郎、知られざる写真・洋画の先覚者-横山松三郎、函館-東京-札幌 明治の洋画、北海道美術史、北海道の美術100年