近世の北海道は、和人地と呼ばれた道南の一部をのぞき、「蝦夷地」と呼ばれ異域とされていた。その道南の和人地・松前が、藩として成立したのは、第5代藩主・松前慶広の時で、この時に幕府から蝦夷地における交易の支配権を与えられた。以後松前は海産物を中心に京阪地方や長崎と交易し、文化的影響を受けながら、北海道唯一の城下町として、独自の文化を発展させていった。
松前藩第12代藩主・松前資広の五男として生まれた蠣崎波響(1764-1826)は、2歳の時に父を亡くし、異母兄の道広が家督を継いだため、家老・蠣崎広当の養子となった。この頃、城内の馬場で行なわれていた馬術の練習を見てその様子を描き、大人を驚かせたという。10歳の時に江戸に出て建部凌岱に師事したが、翌年師の凌岱が没したため、その遺言により宋紫石に師事した。20歳の時に松前に戻り、訪ねてきた大原呑響と親交を深めている。
寛政4年、26歳の時に、東蝦夷地クナシリ島でアイヌによる和人襲撃がおこり、続いてメナシでもアイヌが蜂起、和人から多数の死者が出て、アイヌの首謀者らが処刑される事件が起こった。この時に松前藩に協力して事態の沈静化にあたったアイヌの酋長らをモデルに描いた「夷酋列像」は、京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、波響の画人としての名は一気に高まった。この頃、円山応挙との知遇を得て師事、以後画風が一変し、「松前応挙」と称されるようになった。
文化4年、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は梁川(現在の福島県)に転封されることになった。波響は藩の人員を大幅に削減して梁川に移ったが、その後も松前家の復興のために尽力、文政4年には松前への復帰を成し遂げた。60歳で子の波鶩に家督を譲り、画業に専念したが3年後に没した。作品は、北海道内をはじめ、転封先だった福島県地方などにも多く残っている。波響が活躍した時代は、政治的に複雑な問題を抱えていたが、松前文化が開花した時代でもあった。
蠣崎波響(1764-1826)
明和元年福山城内生まれ。幼名は金介、または金助、のちに彌次郎。名は広年。松前藩第12代藩主・松前若狭守資広の五男。2歳の時に父が没し、家老・蠣崎将監広当の養子となった。10歳の時から江戸に滞在し建部凌岱に師事、翌年師の凌岱が没したため、宋紫石に師事した。20歳の時に松前に戻り、この地を訪れた大原呑響と親しく交友した。寛政元年のアイヌの反乱の際には鎮圧に協力した酋長らを「夷酋列像」として描き、京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、波響の名は一躍高まり、円山応挙との知遇を得て師事、その後画風が一変した。文化4年、松前家が陸奥国伊達郡梁川藩に転封されたため梁川に移り住み、文政4年松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻った。門人に子の蠣崎波鶩をはじめ、高橋波藍、波島、熊坂適山、熊坂蘭斎らがいる。文政9年、63歳で死去した。
蠣崎波鶩(1797-1874)
寛政8年福山城内生まれ。蠣崎波響の子。幼名は栄吉、政人、三七を経て、廣伴となった。16歳で松前藩主・章広の近習となって、18歳で章広御側頭となった。文政6年、28歳で家督を継ぎ、藩の家老となった。父について画を学び、画技については父に及ばず「父の偽作を作り、あるいは父の印章を濫用するなどありて世人の指弾を受く」という不評も伝わっている。明治維新後、東京に出たが、明治7年、78歳で死去した。
高橋波藍(不明-不明)
松前藩士。本名は高橋潮平克。江戸の藩邸に仕えていたが、後年は松前に戻った。蠣崎波響に画を学び、花鳥、人物を得意とした。
高橋波香(不明-1890)
高橋波藍の子。字は錦坪。別号を柳智花明邨舎といった。父の波藍及び横山華山に画を学び、松前で画業で生計をたてていた。松前神社の合天井の「龍の図」「四季草花」などが残っている。宮内省画師となり、明治2年東京において死去した。
波島(不明-不明)
勘定奉行・石黒太左衛門の兄で身体が不自由だったと伝えられる。松前の商人・佐野専右衛門の子。蠣崎波響に学んだあと、京都に出て松村景文に師事した。大坂堂島で妻を迎え、松前に戻ってからは桜庭姓を名乗った。落款に「波嶌」「波島」「波嶋」があるが、同一人物であるかは確認されていない。
北海道(1)-画人伝・INDEX
文献:夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界、蠣崎波響とその時代、松前藩の画人と近世絵画史、描かれた北海道