広島藩の四条派としては、広島白島町に住んでいた町絵師・山田雪塘(不明-不明)が、松村呉春に学び、頼杏坪、菅茶山、飯田篤老ら多くの儒者や文人と交わり、彼らの讃のある作品を残している。山田雪塘の門人としては、藩の絵師で『芸藩通志』の挿画を描いたことでも知られる中川墨湖(不明-1861)、のちに岸駒に学んだ山県二承(1811-1879)、藩の軍務役製図係をつとめた田中鵞群(不明-1876)らがいる。山田雪塘と同時代の町絵師・南陽(不明-不明)も四条派の画人だが、詳細は不明である。また、西白島町で代々酒造を業としていた山田屋の双子の兄・山田来青(1776-1826)と弟・山田雲窓(1776-1825)の兄弟も呉春に師事し、兄は家業を継ぎ、詩・俳諧などの文雅の道にいそしみ、弟は一生独身で兄の家に寄食して画業に精進した。松村景文に学んだ萩出身の中井泰嶺(不明-1865)は、はじめ尾道に住み、のちに広島に移り人物画を得意とした。
山田雪塘(不明-不明)
広島白島の町絵師。名は弼、字は伯諧、通称は良平。別号に墨耕、遠翠楼、山弼がある。京都の松村呉春に学び、四条派の作品を多く残した。文政11年には厳島神社に「鯉魚図」の扁額を奉納している。門人も多い。
南陽(不明-不明)
山田雪塘と同時代の広島の町絵師で、十日町に住んでいたと伝わっている。四条派を学んだと思われ、俳画も残している。庄原市の日吉神社に残る「雨乞い祈祷図」は南陽の作として知られ、当時恵蘇郡の代官だった頼杏坪の注文によって描かれたもので、杏坪の讃がある。
中川墨湖(1789-1861)
天明9年生まれ。広島藩の絵師。名は義喬、通称は彦太郎。はじめ高橋と称したが、のちに中川に改めた。山田雪塘に学んだのち、岸駒に師事した。四条派の画をよくし、蝦を得意とした。頼杏坪が編集した『芸藩通志』の挿絵を描いたことでも知られる。万延2年、73歳で死去した。
山県二承(1811-1879)
文化8年生まれ。通称は虎蔵、のちに書畫介と名乗った。別号に龍耳庵がある。耳が不自由で、再度聞き返すことから「二承」と号した。はじめ山田雪塘に学び、のちに岸駒に学んだ。疎画が巧みだったという。俳諧もよくし、多くの俳画を残している。門人には、明治から大正にかけて広島の日本画壇で指導的な役割を果たした里見雲嶺がいる。明治12年、69歳で死去した。
田中鵞群(不明-1876)
広島の人。通称は孫六。山田雪塘に四条派を学んだ。兄の跡を継ぎ、芸藩軍務役製図係をつとめた。明治5年死去した。
山田来青(1776-1826)
安永4年生まれ。山田雲窓の双子の兄。名は本愛、通称は鶴松、のちに幸蔵とし、さらに吉左衛門と改めた。代々醸酒を業としていた。松村呉春に学んだ。文政9年、52歳で死去した。
山田雲窓(1776-1825)
安永4年生まれ。山田来青の双子の弟。名は恒久、通称は亀松、のちに栄蔵と改めた。松村呉春の学び、一生独身で兄の家に寄食して画業に専念した。文政8年、51歳で死去した。
中井泰嶺(不明-1865)
広島に住んでいた。別号に香遠がある。長州萩の生まれ。松村景文に学び、はじめ尾道に住み、広島に移り住んだ。人物を得意とした。慶応元年死去した。
広島(4)-画人伝・INDEX
文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展