青木翠山(1842-1896)は、沼田藩士の長男として、利根郡沼田(現在の群馬県沼田市西原新町)に生まれた。幼いころから平等寺の住職・井上無蓋に絵を学び、紙凧や羽子板に絵を描いて家計を助けたという。その後江戸に出て、福田半香に師事し、師の知人である椿椿山、山本琴谷らと往来し、滝和亭、田崎草雲、福島柳圃、松本楓湖らと交流した。
30歳で眼病を患い、片目を失明したが描き続け、内国勧業博覧会やシカゴ万国博覧会に出品して受賞した。晩年は両目の光を失ったが制作を続けた。
郷土画家として、生方清逸、藤島華僊、林自然、角田静竹ら多くの後進を育て、新潟の田村豪湖も弟子入りするなど、明治以降の画壇にも大きな影響を与えた。館林の小室翠雲も一時師事したといわれる。
また、勢多郡東村出身で、「兎と亀」「金太郎」「花咲爺」などの作詞者として知られ、明治歌唱の父と称された石原和三郎も、学生時代に翠山に師事し、翠江の雅号で水墨画を残している。
青木翠山(1842-1896)あおき・すいざん
天保13年利根郡沼田生まれ。名は翠治。別号に蓬斎がある。江戸に出て福田半香に学んだ。明治4年片眼失明したが、明治23年の内国勧業博覧会や明治25年のシカゴ万国博覧会でともに受賞した。やがて両眼失明したが制作を続けた。門人も多く、小室翠雲も一時学んだことがある。明治29年、54歳で死去した。
生方清逸(1854-1931)うぶかた・せいいつ
安政元年利根郡岩本生まれ。名は真。はじめ生方西隣、岩本上野らに学び、のちに青木翠山に師事した。古今大家の描法を研究、花鳥画を好み、特に千羽雀図制作を得意とした。明治40年ロンドン万国博覧会で「千羽雀図」が受賞した。昭和6年、77歳で死去した。
藤島華僊(1866-1929)ふじしま・かせん
慶応2年利根郡沼田生まれ。通称は徳四郎。南画を青木翠山、風俗画を月岡芳年に学んだ。また、久保田米僊門下の洗斎永濯に師事し、その養子となった。養父没後は各地を遊歴し名古屋に留まった。人物画を得意とした。昭和4年、63歳で死去した。
林自然(1877-1948)はやし・しぜん
明治10年利根郡昭和村生まれ。農家輯次郎の長男。少年期から画家を志し、家督を弟に譲って16歳で青木翠山に師事、翠香と号した。翠山没後は、上京して梶田半古に師事し、号を自然と改めた。大正12年の関東大震災の際に東京を離れ、各地を遊歴したのち帰郷した。人物画を得意とし、沼田出身の儒者・橋本香坡を描いた「橋本香坡像」が残っている。昭和23年、71歳で死去した。
角田静竹(1879-1953)つのだ・せいちく
明治12年利根郡沼田生まれ。名はいせ、初号は北湖。幼いころから画を好み、8歳で青木翠山に師事した。明治23年、11歳の時に第3回内国勧業博覧会でイギリス・コンノート殿下買い上げとなり、明治27年、15歳の時に日本美術協会展で宮内省買い上げとなった。明治28年、16歳の時に翠山の勧めで上京し滝和亭に師事し、全国絵画共進会をはじめ多くの展覧会で受賞を重ねた。昭和28年、73歳で死去した。
群馬(12)-画人伝・INDEX
文献:利根沼田の人物伝、上毛南画史、群馬県人名大事典