画人伝・岐阜

飛騨の匠から彫刻家へ、飛騨一刀彫りの祖・平田亮朝

天才と称された谷口与鹿のほかにも、飛騨からは多くの名人、名工が出ている。飛騨の匠の中興の祖・藤原宗安の末裔だと伝わっている水間相模、京都東本願寺の御影堂を建てた石田春皐をはじめ、村山、谷口、遠藤、土村、坂下、広田家などが名人、名工を出した名家に数えられる。

与鹿を除くと、飛騨の匠の仕事は建築が主だった。彫刻を専業とするようになったのは平田亮朝からである。亮朝は幼くして江戸に出て、山口友親に師事して彫刻を学び、根付師として名をあげ、飛騨一刀彫りの祖とされている。その作風を慕って教えを乞うものが後を絶たず、門下からは松田亮長、江黒亮春らが出ている。

藤原宗安(不明-不明)ふじわら・の・むねやす
鎌倉末期の飛騨の人。飛騨権守と称した。応長元年7月、肥前権守的宗里とともに美濃の長滝寺の大講堂を建立した。近世の飛騨の大工は名工として崇め、正月には宗安の肖像に神酒などを供えていた。

水間相模(不明-1766)みずま・さがみ
高山の人。平井藤介の子。忠五郎、宗茂と称した。名匠を輩出した水間家の初代。棟梁として宝暦9年高山御坊大門の再建、同12年大雄寺仏殿などを手掛けた。明和3年死去。

石田春皐(不明-1880)いしだ・しゅんこう
神岡村朝浦の人。通称は小兵衛。匠名は斎藤美英。文久元年3月に竣工した京都東本願寺の阿弥陀堂宮殿の棟梁で、当時、模範建築と称された。他にも社寺の堂塔などに手のあとを残した。高山の祭り屋台「大黒台」を設計し、屋台をひく時に伊達柱と上段縁の動きと上段柱と屋根が違った動きをし、前後左右にしなう動の美を出すように構造を工夫した。劉石秋に漢学、詩文を学び、絵画、彫刻もよくした。明治13年、63歳で死去した。

平田亮朝(不明-1847)ひらた・すけとも
根付彫刻家。高山生まれ。江戸に出て山口友親に師事した。日本橋通塩町の袋提物問屋「日の屋」の抱え根付師として名が知られた。弘化4年、38歳で死去した。

松田亮長(1800-1871)まつだ・すけなが
一位一刀彫の大成者として知られる。高山下向町の人。京都の古社寺をめぐって彫刻を研究。江戸の平田亮朝について学んだ。動物が得意で、なかでもヘビやカエルが著名。着色が濃厚な奈良人形を見て、彫りの巧拙がわからないと感じ、イチイの自然の木目を生かし彩色しない一刀彫を完成させた。伊賀の眠江、加賀の友月とともに、天下三鬼才と称された。朝夕に酒をたしなみ、飄々とした性格で奇行も多く、「色も香もみな世にまかす桜木の咲きてきれいにちりてきれいに」を辞世に、明治4年、72歳で死去した。

江黒亮春(不明-1901)えぐろ・すけはる
一刀彫師。高山の人。通称は浅吉、名は勘兵衛。江黒亮忠の兄。別号に玉斎がある。三鉄という飛脚屋の紹介で、天保年間に江戸の平田亮朝から一刀彫を学んだ。渋草で陶芸、形物を作った。明治34年、74歳で死去した。

岐阜(12)画人伝・INDEX

文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典




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