画人伝・岐阜

飛騨における和漢両学の大家、田中大秀と赤田臥牛

江戸中期になると、飛騨の町人の生活水準はあがり、富裕な町人や旦那衆にとっても学問は教養として必要なものとなった。当時の高山には国学と和歌に田中大秀(1777-1847)、儒学と漢学に赤田臥牛(1747-1822)がいて、それぞれが家塾を開いて門人を育て、彼らの中からは画で名を残すものも出るようになった。

田中大秀の門下からは、山崎弘泰、富田礼彦、上木清成、蒲八十村、稲田元浩、桐山如松、日下部道堅ら多くのすぐれた学者が出ており、明治になってからは山崎弓雄、大池真澄、田島春園、吉島斐之、富田道彦、鴻巣盛雄、岡村御蔭らがそれぞれの門から出て学風を受け継いだ。

赤田臥牛の家からは、臥牛、章斎、誠軒と三代にわたって漢学者が出て功績を残した。赤田章斎は、詩文に長じ画もよくした。

また、田中大秀、赤田臥牛の師である加藤歩簫、当地における考古学の元祖・二木長嘯らは、画人としても功績を残している。

加藤歩簫(1743-1827)かとう・ほしょう
寛保3年高山二之町生まれ。雲橋社中興の俳人で5世。玄俊の子。名は貴雄。通称は小三郎。別号に蘭亭、志羅々翁、白翁、里秋などがある。五升庵蝶夢に俳諧を、伴蒿蹊に国学を学んだ。父の私塾を継いで、田中大秀、赤田臥牛ら多くの俳人や学者を育てた。文化13年西茂住の三峡に俳人・野沢凡兆の貴詠地を探し岸壁に「鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ」を著し彫らせた。図書1000余冊を収集し、飛騨初の公開文庫である「雲橋社文庫」を開設した。著書に『紙魚のやとり』『ゆききの旅つと』『蘭亭尚歯巻』『よしなし草』などがある。

二木長嘯(1755-1814)にき・ちょうしょう
宝暦5年高山二之町生まれ。石器収集家・酒造業。二木家7代目。呂竹の長男。初名は孫三郎、のちに俊恭。字は子敬。長右衛門と称する。赤田臥牛と尾張藩の学者・松平君山に師事した。心学に熱心で、人心を救おうと国内を一年あまりで巡った。石器収集家として日本的に著名で、木内石亭と交わり、石器類50点などが国の重要美術品となっている。久々野村、木賊洞村の険路を改修した。天明年間に白川郷で天然痘が発生すると、京都から薬をとりよせて郷民を守った。著書に『神代石図』などがある。文化11年死去。

赤田章斎(1784-1845)あかだ・しょうさい
天明4年生まれ。赤田臥牛の嫡子。名は光暢、字は永和、通称は新助、幼名は貞吉。別号に鉅埜逸民、公茂がある。臥牛の教えを受け、文政元年に父に代わって静修館で教えた。天保3年の大火で静修館が焼失したため、高山馬場通り海老坂上に再興し、飛騨国中教授所として郷村を巡回して教え、弘化元年には神明町角に移築した。詩文、絵画にも優れ、敬神の念が篤かった。花里天満宮に本人が識した退筆塚がある。弘化2年死去。

宇野適斎(不明-1842)うの・てきさい
高山の人。名は敬賢、字は思斎・平芝、通称は勘吉・勘右衛門。九淵の子。高山の祭り屋台「仙人台」の牡丹の絵を手掛けた。赤田章斎に漢字を学び、田中大秀の門人。水音社の俳客。天保13年、59歳で死去した。

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文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典




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