原佑知
文政10年三戸郡三戸町に生まれる。工藤数馬から維新後、原佑知と改めた。経典を修め、槍術、馬術に練達し、安政3年盛岡に出て3年間家老東中務に仕えた。その間、文武を磨き、安政6年三戸に帰り塾を開き子弟を育成した。維新後は奥入瀬川、切田川を分流、相坂、折茂を経て下田に達する上水工事を計画し、資金調達などで奔走するが未完のまま明治26年死去したといわれる。翠葉亭竹山と号し、水墨画をたくさん残している。
福田寛
明治34年八戸市上徒士町に生まれる。県立八戸中学校から東京美術学校に進み、大正10年卒業。香川県高松高等師範学校をはじめ、函館女子校、八戸高等女学校、青森女子師範学校、そして母校の八戸中学校の教諭を務めた。画業では帝展に出品、昭和9年に十和田湖風景画会を組織し後進の育成に努めた。昭和25年、50歳で死去した。
藤島北泉
鋳造家。明治25年盛岡市に生まれる。本名は藤島兵右エ門。明治末盛岡の鋳造家・初代宮昌太郎に師事した。昭和初期には岩手水沢羽田村にて砂鉄を使って鋳造技術を指導していたという。同時期、岩手県工業試験場技師の蒔田三千蔵にこわれ、八戸番町の蒔田炉において職人として鉄瓶、茶釜、香炉、置物、ブロンズ、花瓶、半鐘、火鉢などを制作した。帝展工芸部出品。
船越霊戒
明治7年岩手県宮古の金浜に生まれる。本名は元孝。月浦山凌雲寺二十一世住職。達磨の霊戒と称され、達磨を得意とした。若い頃から画才に優れ、菊池黙堂に師事、戦時中は、曹洞宗本山布教師として全国を絵行脚、八戸にもたびたび訪れ多数の達磨図、蘭画などを残している。昭和22年8月、73歳で死去した。
槇玄範
安政5年下北郡田名部に生まれる。幼名は謙治。本職は漢方医、製薬業だが、隣仙と号して絵を描いた。大正10年、70歳で死去した。
蒔田三千蔵
鋳造家。明治26年八戸番町に生まれる。県立八戸中学校を経て、東京美術学校鋳造科を卒業。大正12年岩手県工業試験場に金工部長として勤務。昭和3年全国産業博覧会審査員、同4年秋田県工技師転任、同7年退官し八戸で自営をはじめる。昭和2年と3年に帝展工芸部連続入選、商工省展2等受賞。同8年より青森県工産物共進会の審査員を務めた。昭和47年死去。
松尾少輔
彫刻家・版画家。明治38年三戸郡三戸町に生まれる。本名は庄助。大正13年京都芸大に入学、森鳳声に師事した。昭和6年帰郷し、彫刻・版画の制作をした。彫刻では、昭和元年日本美術協会展入選、昭和12年東奥美術展で《ある日の西有穆山》が特選になった。版画では、昭和10年版画協会展に出品、同36年には日本板画院の会員となっている。昭和43年、63歳で死去した。
南部(4)-ネット検索で出てこない画家
文献:青森県南部書画人名典