◎昭和期の画家(1)
皆川東僊
明治10年秋田市手形生まれ。栢山は祖父。足が悪く、9歳の時に両耳が聞こえなくなった。20歳で小室怡々斎に入門、さらに京都の久保田米僊にも数年学んだ。京都から帰ると秋田市柳町鉄砲小路の寺に住み、気が向くと絵を売りながらの旅に出た。昭和の初めに東京に出て、それから大陸に渡り消息を絶った。
柴田馬嶺
嘉永3年雄勝郡羽後町西馬音内本町の柴田家に生まれた。本名は政治。幼い頃に父久助が亡くなったため祖父黒沢八郎兵衛の家で育った。黒沢家は古い染め物屋で、代々絵を得意とし、馬嶺も八郎兵衛の手ほどきを受けた。明治7年馬嶺は町内の柴田弥惣兵衛の長女イチの婿になり「一染」と号した。婿入り先の分家柴田与之助宅には寺崎広業が永住まいしており、広業の東京天籟画塾にも2、3度訪れ修業を積んでいる。師の広業は年長の馬嶺を「馬嶺先生」と呼んでいたという。作品には仏画神像が多い。昭和3年死去。
三浦雪堂
明治4年5月20日由利郡由利町東滝沢の前郷生まれ。本名は六三郎。別号に宋眠、鳥海、俳号に瓢六がある。儀兵衛の五男。兄に東耕、次兄に田村義雄がいる。幼い頃から画才があり、明治21年上京し、呉春派の村瀬玉田に入門した。大正11年の第1回県出身書画作品展に《芦雁》を出品している。菩提寺の慶祥寺に代表作《武帝と達磨問答図》が残っている。昭和3年10月6日死去。
荒岩松庭
弘化4年5月3日比内町大葛生まれ。本名は常吉。大館市谷地町に住んでいたが、大方比内町扇田、独鈷、大葛など転々とめぐり歩いた。扇田の寿仙寺の玄関の天井に《雲龍図》が、個人宅に屏風や襖絵などが残っている。昭和3年12月5日、82歳で死去した。
北村愛竹
明治9年12月23日大館市良風院前生まれ。名は周助。藤助の長男。称置石月を慕い函館で修業後、菅原白竜に学んだ。京都の南画協会に出品した。昭和5年5月1日、都下の大島村で55歳で死去した。
淡路釆草
明治31年山本郡藤里町藤琴字大沢生まれ。本名は浅之助。別号に紫水がある。農業の多助の三男。大正6年上京し大滝雨山について絵を学び、9年には平福百穂の白田舎でさらに研鑽を積んだ。11年の中央美術展で《家鴨の子》が入選した。作品は花鳥が主だが、帝展のために描いた最後の絵《野ぶどうと猿》が残っている。昭和6年12月21日死去。
滑川穫堂
明治14年10月11日湯沢市下町生まれ。本名は道太郎。滑川家は佐竹武士で「槍の滑川」として代々槍術で名高かった。穫堂は県内の小学校の教員を勤め、湯沢高女の校長となった。晩年に広島晃甫と知り合い、旧来の派と異なった新鮮な花鳥画を描いた。昭和7年4月13日死去。
東海林恒吉
明治34年雄勝郡稲川町三梨生まれ。川連小、湯沢女子小、師範付小に勤め、大正14年上京して小石川区駕篭小に勤務した。帝展に《坂のある風景》で初入選、昭和13年頃に秋田美術会(在京美術会)の世話役をしていた。昭和12年2月3日、37歳で死去した。
栗林東一郎
明治39年秋田市保戸野八丁新町生まれ。昭和5年に東京美術学校を卒業、四国の今治高女教諭を経て、昭和8年に秋田市に帰り秋田高女に勤めた。水彩画を得意とし、日本水彩画会に所属していた。昭和15年、34歳で死去した。
秋田(14)-ネット検索で出てこない画家
文献:秋田書画人伝