画人伝・福島 土佐派・大和絵系 南画・文人画家 山水・真景

復古大和絵を学び、のちに谷文晁門下の高久靄厓の後を継ぎ、大和絵と南画を融合した画風を確立した高久隆古

高久隆古「蘭亭曲水図」栃木県立博物館蔵

高久隆古〔高隆古〕(1810-1858)は、文化7年に忍城下(現在の埼玉県行田市)に阿部家の家臣・川勝隆任の子として生まれた。阿部家は三河以来の徳川家譜代大名として福山の阿部家とともに老中を出す家柄で、川勝家は阿部家の家老職をつとめる名門だった。文政6年、三方領知替えにより松平定信の子・定永が伊勢桑名に移封され、替わって阿部家が忍藩から白河に国替えとなり、それに伴い隆古も白河に移住した。

隆古は、白河に移り住んだ14歳ころから絵師を志すようになり、武士道に身を入れなかったため父母の怒りをかい勘当され、18歳ころに江戸に出て谷文晁門下の依田竹谷に師事した。さらに復古大和絵の先覚者である田中訥言の画風を慕って上京、訥言はすでに没していたが、その弟子の浮田一蕙に入門した。この間、香川景樹に歌道を、穂井田忠友、山科元幹に有識故実を学び、大和絵の研究に役立てた。天保7年ころまで京都で学び、その後、名古屋の渡辺清にも教えを受け、江戸に戻った。

隆古が江戸に戻ってまもなく谷文晁門下の高久靄厓が急逝した。靄厓は、渡辺崋山、立原杏所らと並ぶ文晁門を代表する画人で、その画系が失われることを惜しんだ周囲の薦めで、隆古が高久家に養子に入り、跡を継ぐことになった。隆古は、南画とやまと絵を合わせた独自の画風を確立したが、のちに高久家を離れることになる。江戸で着実に名声を高めていった隆古は、精力的に関東周辺各地を廻り制作活動を行なっていたが、下総佐原から江戸に帰る途中、49歳で急逝した。

高久隆古〔高隆古〕(1810-1858)たかく・りゅうこ〔こう・りゅうこ〕
文化7年忍城下(埼玉県行田市)生まれ。本姓は秦氏。系は秦川勝から出て、氏を川勝と称した。初名は隆恒、通称は斧(小野)四郎、字は述而。初号は希龍。別号に梅斎、梅華斎、梅樹、亦迂、無道山史などがある。父親が仕えていた藩主阿部家が白河に国替えになったため、従って白河に移った。14歳ころから絵師を志し、18歳ころに勘当され江戸に出て依田竹谷の門弟となった。23歳ころ京都に上り、浮田一蕙に復古大和絵を学び、さらに名古屋で渡辺清に師事した。天保9年ころに江戸に戻った。天保14年、34歳の時に、急逝した高久靄厓の後を継ぎ高久家の養子となったが、のちに高久家を離れた。関東周辺各地を廻り作品を残したが、安政5年に下総佐原から江戸への帰途、コレラのため49歳で死去した。

福島(19)-画人伝・INDEX

文献:ふくしま近世の画人たち、白河を駆け抜けた作家たち、高久隆古・その画業を探る




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