白河の郷土絵師・蒲生羅漢(1784-1866)は、天明4年に白河に生まれた。この年は松平定信が白河藩主についた年で、その後定信の強い影響下で白河の近世画壇は一気に花開いていく。定信は才覚があれば一介の町絵師でも起用しており、13歳の頃から江戸で谷文晁に学んでいた羅漢も、定信に見い出され、享和3年には「石山寺縁起絵巻」の模本制作を藩絵師の星野文良、岡本茲奘らとともに行なった。
その後の羅漢の行動は不明な点が多いが、定信や白河藩周辺の絵の御用に関わっていたと思われる。諸国を漫遊したとも伝わっているが、定かではない。文政末年頃には、白河城下に戻り、羅漢山に「槃薄画處」という画房を造り、自然と一体になり、自由に絵筆を振るった。豪放な性格で酒を好み、民謡「会津磐梯山」の小原庄助のモデルとされる会津塗師久五郎とは酒好きという点で意気投合し、面倒をみたという逸話も残っている。
蒲生羅漢(1784-1866)がもう・らかん
天明4年白河生まれ。父は藤田嘉十郎。名は豹(豹之助)。別号に蒲生豹、無声道人、在家菩薩などがある。寛政8年頃から江戸に出て谷文晁の写山楼塾で学んだ。文化2年白河藩主松平定信の命により「石山寺縁起絵巻」の模写事業に参加した。福島県内を中心に多数の作品が残されている。谷文晁の影響を受けた道釈人物、山水画、花鳥画、大和絵、仏画などのほか、独自の中国絵画学習の成果を示す作品も多い。慶応2年、83歳で死去した。
福島(9)-画人伝・INDEX
文献:白河のまちを飾った絵師 蒲生羅漢、白河の歴史、白河を駆け抜けた作家たち、ふくしま近世の画人たち、定信と文晁