画人伝・遠州 岸派

遠州における岸派

遠江において岸派を学んだものは、石川晶斎、宮本龍嶺、駿河に柴田泰山がいる。画派としては南画におされて振るわず、極少数派であった。岸駒に学んだものに巫山がいるが、その経歴は不明である。この時期の南画以外としては、ほかに木村月塘、大矢米年がいる。また明治期に浜松に在住していたものとしては、宮原水雲、水野松巌、宮坂勝春、花谷式人ら異色の画人もいる。

石川晶斎(1810-1884)いしかわ・しょうさい
文化7年7月3日生まれ。名は雅琢、字は盛器、幼名は玉治、通称は田十郎。はじめ玉台と号し、後に晶斎と改めた。別号に岸琢がある。20歳の時に早川斯尹に学んだが、斯尹が没したため、その遺旨をうけて京都に入り岸岱に師事した。明治12年故師岸岱追慕会を浜松で開いている。画事は温雅で着実だったという。明治17年9月1日、75歳で死去した。

宮本龍嶺(1819-不明)みやもと・りゅうれい
文政2年生まれ。浜松の人。岸岱に師事した。門人が山下嶺月がいる。

木村月塘(1812-1876)きむら・げっとう
文化9年生まれ。榛原郡金谷町の人。名は肇好、童名は哲丸。別号に洗耳坊がある。木村半雨の父で、金谷町西照寺の住職。板倉呂仙に師事。明治9年2月4日、66歳で死去した。

大矢米年(1879-1966)おおや・べいねん
久保田米僊に師事。明治28年に浜松市田町の市川霊雲が漆器製造所を創立して、東京から蒔絵師の秋山某、塗師の山岡徳三、研屋の栄次、色漆の井上為山らを招いて美術漆器の製造販売を始めた。好評だったため、次いで画工として浜松に来たのが米年である。米年は洒脱豪放な画風で評判はよかったのだが、事業は次第に縮小していったという。

宮原水雲(不明-不明)みずはら・すいうん
名は廉。明治初年頃、浜松県課長を務めていた。

水野松巌(不明-不明)みずの・しょうげん
狩野素川と共に浜松に来ていた徳川藩士。別名は原島松巌。

宮坂勝春(不明-不明)みやさか・しょうしゅん
代々の菓子商。画は菓子の余戯として描いた。

花谷式人(1801?-1902?)はなや・しきじん
浜松市三組町の神明社の側、九尺二間の家に住んでいた。百余歳まで生き、野人らしい画を描き、縁起をかつぐ人達に喜ばれた。相当数の作品が残っている。

遠州(8)画人伝・INDEX

文献:遠州画人伝




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