木挽町狩野の流れは伊予の地に急速に広がり、大洲藩にやや遅れて西条藩からは小林西台(1794-1854)が出た。西台は、大洲藩の若宮養徳(1754頃-1834)と同じ木挽町狩野の門に学んだ。40歳ほど年長の養徳に師事したという説もある。伊予八藩の中でも西条藩は別格で、一柳直興の改易後に西条藩藩主となった松平家は、徳川御三家の紀伊徳川家の血筋にあたり、藩主は領地の西条には赴かず、江戸に定府する特別な位置にあった。そのため、西台も藩主と共にほとんどを江戸で過ごしている。西台の子・小林朴宇も画をよくし、父の跡を継いで西条藩絵師となった。ほかに、今治藩では能島邑義・典方父子が藩絵師として活躍した。
小林西台(1794-1854)こばやし・せいだい
寛政6年江戸生まれ。名は良林、字は鳴春、はじめ文熈と称し、岳陽と号した。江戸に出て木挽町狩野の画塾で学んだとされ、若宮養徳の門人という説もある。文化7年、17歳の時に松平頼学の近侍となり、文政12年、36歳の時に藩命により絵御用を専らとするように仰せつかり、翌年剃髪して藩絵師となった。ほとんど江戸に住んでいた西台だが、西条地方を中心に多くの作品が残っている。『西条藩根元帳』によると、天保6年、藩主松平頼学に随行して江戸を離れ、約9か月を西条で過ごしている。この時の様子は「松平頼学入国船行列図」に描かれている。嘉永7年、61歳で死去した。
能島邑義(1710-1775)
宝永7年生まれ。今治藩絵師。藩主松平定基、定卿の二代に仕えた。通称は與市兵衛。絵ははじめ木挽町狩野派の画人・野村常林に学び、のちに狩野邑信の門に入り、師より一字を許され「邑義」と号した。さらに延享4年、狩野晏信の弟子となった。安永4年、65歳で死去した。子の能島典方も狩野典信の門に学び、今治藩の絵師をつとめた。
今城敬慶(1747-1807)
延享4年宇摩郡野村生まれ。名は半蔵。別号に東仰斎がある。天明2年葱尾村今城家の養子になった。狩野派の絵をよくした。晩年は同地の平山に庵を設けて風雅な生活を送った。文化4年、60歳で死去した。
青野桑里(1842-1877)
天保13年周桑郡庄内村生まれ。別号に桑満がある。木挽町狩野の狩野勝川院雅信に入門し学んだ。明治6年に陸軍省出任、印刷局助役となった。印刷機械、写真、版画などの研究をした。明治10年、35歳で死去した。
愛媛(5)-画人伝・INDEX
文献:伊予の画人、愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝