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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2022/9/3
長町竹石「舟曳山水図」 高松藩の家老だった木村黙老が著した『聞ままの記』によると「田中松峯、名ハ正路、號を五峰といふ醤なり京師に遊学して大雅堂(池大雅)に書画を学ふ、當国の漢画ハ我始祖なりといへり」と ...
2022/9/3
高松に生まれた黒田綾山(1755-1814)は、池大雅門下の福原五岳に学び、師の五岳同様に人物画を得意とし、明画、とりわけ美人画の名手とされる銭貢に私淑し、主題、構図、筆法、彩色法などを学んだ。五岳の ...
2022/9/3
鶴洲「文殊菩薩図」 讃岐において、狩野派の画僧・實山と並び称されるのが、土佐派の流れを汲む画僧・鶴洲である。後年の活動から鶴洲を土佐派の画人とするには異論もあるが、鶴洲は、住吉派の祖である住吉如慶の子 ...
2022/9/3
實山「福禄寿図」 讃岐を代表する画僧・實山も狩野派の画人である。實山は江戸の人で、狩野家の養子となったが、のちに実子が生まれたために僧となり、享保年間は高松の見性寺で住職をつとめ、隠居して自性庵に住ん ...
2022/9/3
狩野常眞「叭々鳥図」 江戸時代は幕府の御用絵師に狩野派が登用されていたため、全国的に狩野派の絵師を召し抱える藩が多く、高松藩においても二代藩主松平頼常の頃、もしくは初代頼重の終わり頃に、狩野派の絵師・ ...
2024/12/21
下村為山「俳句革新記念子規庵句会写生図」 愛媛生まれで「俳聖」と称される正岡子規は、単なる俳人としてとらえられる人物ではなかった。新聞記者や雑誌の創刊など多彩な活動をし、絵も描いた。子規のまわりには、 ...
2025/3/27
下村為山「柳蔭釣人図」 洋画の黎明期にあって、愛媛出身の洋画の先達としては、下村為山と中川八郎があげられる。当時は、洋画の技法を修得するには上京して画塾などで指導を受けるしかなく、下村為山(1865- ...
2021/7/9
高橋周桑「文楽吉田栄三」 明治も20年代になると、岡倉天心、フェノロサらの提唱により東京美術学校が開設され、日本美術院が創立されるなど、「新日本画」を標榜する革新運動が活発になっていった。京都における ...
2025/2/24
林涛光 左:「石槌画賛」賛:半井梧菴、右:「面白の滝画賛」賛:半井梧菴 吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南 ...
2021/7/9
三好藍石「讃岐小豆島寒霞渓秋景之図」 天野方壺の登場で全盛を迎える伊予南画だが、伊予画壇において方壺と双璧と謳われたのが続木君樵(1835-1883)である。君樵は庄屋の家系に生まれ、幼いころから書画 ...
2021/7/9
天野方壺「興居島古和田山海之図」 幕末から明治初期にかけて活躍した伊予出身の南画家に、天野方壺(1824-1895)がいる。その生涯はほとんど不明確だが、諸々の資料をつなぎ合わせると、はじめ三津の四条 ...
2021/7/9
吉田蔵澤 左:風竹、右:墨竹 伊予南画の先駆的な存在としては吉田蔵澤(1722-1802)があげられる。蔵澤が長崎南画との出会いによって墨竹を始めたころは、ちょうど池大雅や与謝蕪村らによる日本南画の黎 ...
2021/7/9
左:松本仙挙「鬼ケ城山之図」、右:河崎蘭香「東台の春」 森田樵眠によって伝えられた円山四条派の流れは、伊予の地に広まっていった。東宇和郡野村町に生まれた松本仙挙(1880-1932)は、京都市立美術工 ...
2021/7/9
山本雲渓の活躍期に重なるように現れたのが、松山三津の町絵師・森田樵眠(1795-1872)である。樵眠については詳しい経歴は伝わっていないが、京都に出て岡本豊彦の門で学び、伊予の地に四条派の画風を初め ...
2021/7/9
沖冠岳 左:流水響空図、右:猛虎之図 今治に生まれ山本雲渓の手ほどきを受けて絵画に目覚めた沖冠岳(1817-1876)は、京都に出て岸駒の門に入り画を学び、その後江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交わり、 ...
2021/7/9
左:山本雲渓「五匹猿図」、右:大内蘚圃「群猿」 藩の絵師として全盛を極めた狩野派や住吉派にかわり、江戸後期から末期にかけて新しい画境を切り開いたのは、長崎系南画の流れや円山派だった。今治藩の山本雲渓( ...
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