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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2021/7/6
小西正太郎「赤い着物の女」 秋田県人で最も早く洋画を学んだとされるのは、男鹿市出身の斎藤鹿山(1866-1943)だが、斎藤は、その後30歳の時に福田笑迎と秋田新聞を創刊、節堂などの筆名で雑文や短編小 ...
2021/7/6
福田豊四郎「六月の森」 秋田県北部の鉱山の町・小坂に生まれた福田豊四郎(1904-1970)は、15歳で画家を志し、17歳で東京の日本画家・川端龍子に師事した。2年後には、龍子の勧めで京都に行き土田麦 ...
2021/7/6
館岡栗人「かまくら」 館岡栗山(1897-1978)は、馬川村(現在の五城目町)の農家に生まれ、秋田師範に入ったが病弱だったため1年たらずで中退、京都に出て、昭和3年から近藤浩一路に師事した。昭和8年 ...
2021/7/6
高橋萬年「雀小屋」 秋田市に生まれた高橋萬年(1897-1956)は、16歳で上京し、寺崎広業に師事した。健康を損ねて1年半で帰郷するが、広業からは、画材の扱い方や線に対する厳しい態度を学んだ。帰郷後 ...
2025/3/27
平福百穂「獅子図」六曲一双屏風(右隻) 左隻 平福穂庵の子として角館に生まれた平福百穂(1877-1933)は、父に絵の手ほどきを受けていたが、13歳の時に父が死去、その4年後に上京して川端玉章に師事 ...
2024/12/11
寺崎広業「美人読書図」 秋田に生まれた寺崎広業(1866-1919)は、はじめ郷里の狩野派・小室怡々斎に師事し、ついで角館出身で東京に出ていた四条派の平福穂庵の勧めで上京し穂庵に師事、穂庵の帰郷後も東 ...
2021/7/6
小室怡々斎「年中行事」画面右から左へと五節供を中心とした陰暦12カ月の行事が描かれている。右上から、正月「万歳」と2月初午「絵馬奉納」、3月「雛祭」と4月「初鰹」、5月「端午の節供」と6月「夏越祓」 ...
2021/7/6
津村洞養「司馬温公」 津村洞養(1834-1905)は、祖父、父と続いた秋田藩御用絵師の家に生まれ、はじめ父に学び、嘉永5年に江戸に出て、狩野洞庭、狩野洞白に学び、さらに河鍋暁斎について本格的に絵の修 ...
2021/7/6
辻九皐「鷲」 秋田の円山四条派としては、長山孔寅、川口月嶺、柴田南谷、平福穂庵を中心に、多くの画家たちが出ており、寺崎広業、平福百穂も画系からみれば、この流派に属する。 角館の呉服屋に生まれた辻九皐は ...
2021/7/6
平福穂庵「乞食図」明治13年の龍池会主催「観古美術会」に出品された穂庵の出世作。角館の奇人・小田野弥六をモデルにしたとされる。 角館に生まれた平福穂庵は、幼いころから郷里の四条派の画家・武村文海に学び ...
2021/7/6
武村文海「鶏」 秋田藩内で盛んになった円山四条派の絵は、柴田南谷や川口月嶺によって広まったものと思われ、幕末から明治にかけて中央画壇でもその画名を知られるようになった角館の平福穂庵も、川口月嶺の影響を ...
2021/7/6
柴田松谷「小禽図」 大坂画壇での長山孔寅の活躍は、秋田で四条派が普及する導火線になったと思われるが、系統として円山四条派の絵画を秋田藩内に広めたのは、江戸で学んだ横手の柴田南谷らとされる。 柴田南谷( ...
2021/7/6
長山孔寅「双鹿」 秋田出身の四条派の初期画人としては、京都に出て呉春に学び、のちに大坂画壇で活躍した長山孔寅(1765-1849)がいる。孔寅は、12歳で角館の酒屋・久田屋に奉公し、のちに秋田の那波呉 ...
2021/7/6
『菅江真澄遊覧記』5-18 牡鹿の寒風(文化7年7月から翌正月までの日記)この日記には、男鹿大地震の様子が記録されている。正月は宮沢(若美町)で迎え、なまはげの様子を説明している。 三河国で生まれた菅 ...
2021/7/6
左:増田九木「良寛図」、右:増田象江「男鹿飛島眺望図」 由利・本荘地方は、本荘狩野といわれる独自の絵画圏をつくり、狩野派が大きな勢力を持っていたが、谷文晁系の南画を学んだ増田九木は、長い旅の末に広く画 ...
2021/7/6
上:牧野雪僊「鼓飛天図」、2番目:増田象江「太鼓飛天図」、3番目:阿部永暉「持蓮華飛天図」、下:鈴木梅山「散華飛天図」 本荘市の永泉寺山門は、本荘藩最後の藩主・六郷政鑑の時代に、永泉寺六世義門達宣の発 ...
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