-
-
山梨に疎開後は中央画壇から離れた近藤乾年
2021/7/5
近藤乾年(1894-1984)は、南画家・近藤東来(1850-1925)の子として大阪市江戸堀に生まれた。父の東来は旅に生きた絵師で、それゆえに乾年は小学校を15回も転校したという。詳しい経歴は確かで ...
-
-
新興大和絵会の結成に参加した穴山勝堂
2021/7/5
穴山勝堂(1890-1971)は、山梨県東八代郡錦生村(現在の笛吹市御坂町)に生まれた。山梨県立旧制日川中学校を卒業後、上京して東京美術学校師範科に進み、在学中は白馬会に通い洋画家の黒田清輝に学んだ。 ...
-
-
日本画院の創立に尽力した望月春江
2021/7/5
山梨県西山梨郡住吉村増坪(現在の甲府市増坪町)に生まれた望月春江(1893-1979)は、県立甲府中学校(現在の県立甲府第一高等学校)を特待生の成績で卒業し、医者を志して上京したが、美術史家の中川忠順 ...
-
-
洋画から転じ水墨画に新境地を拓いた近藤浩一路
2024/12/11
近藤浩一路(1884-1962)は、山梨県南巨摩郡睦合村(現在の南部町)に生まれ、3歳の時に病弱な父の療養のため一家で静岡県岩渕村(現在の富士市岩淵)に転居した。幼いころから画才を発揮し、韮山中学校( ...
-
-
岡倉天心、横山大観らの渡米に同行した河内雅渓
2021/7/5
山梨県北巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)に生まれた河内雅渓(1873-1943)は、明治27年に上京して橋本雅邦に師事し、東京美術学校日本画科に入学した。しかし明治31年、同校校長・岡倉天心が校内紛争によ ...
-
-
雪舟画に傾倒し雪舟様作品を多く描いた鶴田機水
2021/7/5
明治22年に東京美術学校が開校すると、山梨県下からも同校で学ぶものが出てきた。石和町(現在の笛吹市石和)出身の鶴田機水(1874-1914)は、山梨県尋常中学校(現在の甲府一高)を卒業後、一時教鞭をと ...
-
-
山梨県内に多くの肉筆画を残した浮世絵師・中澤年章
2021/7/5
山梨県巨摩郡布施村(現在の中央市)に生まれた中澤年章(1864-1924)は、22歳の時に上京して浮世絵師・月岡芳年に師事した。どのような経緯で芳年に入門したのかは定かではないが、芳年は甲府を何度か訪 ...
-
-
中村蘭林ら旧塩山市の南画家
2021/7/5
旧塩山市(現在の甲州市塩山)出身の明治期の南画家としては、甲府の竹邨三陽に学んだ村田昆棟、古屋栞雅らがいる。二人は明治15年の第1回内国絵画共進会に出品するとともに弟子を持ち教えるようになり、明治17 ...
-
-
明治の三大閨秀画家のひとり・野口小蘋
2025/2/13
漢方医の長女として大坂に生まれた野口小蘋(1847-1917)は、幼いころから書画の才能に恵まれ、8歳で四条派の絵師・石垣東山に手ほどきを受け、19歳の時に南画家の日根対山に師事し、明治元年頃には京都 ...
-
-
日本の初期洋画家のひとり・中丸精十郎
2021/7/5
日本における近代洋画は、安政3(1856)年に幕府によって開設された蕃書調所(東京大学の前身)から始まったとされる。ここで絵図調出役をつとめていた川上冬崖(1827-1881)が、正式に洋画の研究を進 ...
-
-
各地を遊歴して画技を磨き名を高めた三枝雲岱
2021/7/5
山梨県巨摩郡浅尾新田(現在の北杜市明野)に生まれた三枝雲岱(1811-1901)は、14歳の時に蔵原村の三光山宝原寺の三枝家の養子になり、22歳で住職となった。幼いころから画を好み、はじめ甲府の竹邨三 ...
-
-
米山朴庵と都留市ゆかりの画人
2021/7/5
都留市出身の画人としては、旭岳麟、清水豊掌のほかに米山朴庵(1864-1928)がいる。朴庵は、山梨県南都留郡境村(現在の都留市境)に生まれ、滝和亭が下谷村の小池家に身を寄せていたときに弟子入りしたと ...
-
-
紀州侯のお抱え絵師になったと伝わる旭岳麟
2021/7/5
山梨県都留市は、古くから郡内地方の中心地として発展し、特に江戸時代前期には谷村藩の城下町として栄えた。幕府の直轄地となってからも葛飾北斎や松尾芭蕉をはじめ多くの文人たちがこの地を訪れ、多様な江戸文化が ...
-
-
山梨の近代南画の先駆者・竹邨三陽
2021/7/5
甲府の医師の家に生まれた竹邨三陽(1799-1857)は、青年期に藩校で友野霞舟らから文人としての教養を受け、のちに尾張名古屋へ遊学して山本梅逸、中林竹洞に師事した。山梨の近代南画の先駆者として位置付 ...
-
-
近世日本の篆刻界で「印聖」と称された高芙蓉
2021/7/5
日本の篆刻は、明王朝滅亡に際して中国から亡命した黄檗禅僧によってもたらされ、17世紀中期以後に長崎に渡来した独立性易、東皐心越を祖に形成されたとされる。装飾的な技巧を主とした刻風だったが、のちに「印聖 ...
-
-
日本南画の先駆者のひとり・柳沢淇園
2021/7/5
大和郡山藩で柳沢吉里・伊信の二代に任えた柳沢淇園(1703-1758)は、早熟多才で、なかでも画才に恵まれ、8、9歳頃から狩野派を学んでいたが、12、3歳の時には狩野派を骨髄を得ないと批判し、明清画を ...