菊谷栄(1902-1937)は、青森市では今純三に継ぐ油絵の草分け的存在だが、菊谷を有名にしたのは、「日本の喜劇王」と称されたエノケン(榎本健一)の劇団に舞台装置家として参加し、レビュー作家としてデビューしたことだった。以後菊谷はエノケンの全盛期時代の軽演劇の作品を数多く手掛けることになる。
明治35年に東津軽郡油川町に生まれた菊谷は、青森中学校を卒業後に画家を志して上京し、東京美術学校を受験するが失敗。翌年日大芸術科に入学した。学業のかたわら川端画学校にも通い、本格的に油絵を学び、昭和3年に白日会展に入選、同年青森の松木屋デパートで初個展を開催して注目された。
この頃、浅草のおでん屋でエノケンと知り合い、行動をともにするようになる。劇団に入りレビュー作家として活動を始めてからも、帝展を目指して油絵を描き続けたが、一度も入選することなく、昭和12年中国の北支戦線で34歳で戦死した。榎本は菊谷の死を惜しみ、ジャズによる告別式の形で劇団葬を行なった。
菊谷栄(1902-1937)きくや・さかえ
明治35年東津軽郡油川町生まれ。本名は菊谷栄蔵。大正4年青森県立青森中学校入学。大正9年に同校を卒業し、東京美術学校を受験するが失敗。青森営林局管理課に製図工として勤務した。大正10年上京して日大芸術科に入学し川端画学校にも通った。昭和2年兵役に服務。昭和3年浅草のおでんやでエノケン(榎本健一)と知り合う。同年第5回白日会に入選し、青森市の松木屋で個展を開催。昭和5年エノケンの勧めで、新カジノ・フォーリーに舞台装置家として参加。エノケンがオペラ館に「ピエル・ブリヤント」を創設した際に文芸部員として入会し、レビュー作品に手掛けた。以後プペを中心にエノケンの全盛期時代の軽演劇の作品を手掛けた。昭和12年、中国北部において34歳で戦死した。
青森(38)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代洋画のあゆみ展、津軽の美術史