平尾魯仙の門人たちによって、明治期の津軽の日本画は大きな進展を遂げるが、なかでも高弟といわれた三上仙年と工藤仙乙は、明治30年代に弘前絵画会という日本画団体を設立し、弘前における日本画の普及と発展につとめた。仙年は山水画を、仙乙は花鳥画を深めていき、二人の競い合いのなかで津軽の日本画壇は発展していったが、その一方で、岡倉天心らが提唱した新画と呼ばれる日本画の様式を、容易に受け入れない土壌ができたともいえる。
三上仙年(1835-1900)は、幼くして画才を認められ、囲碁の樋口小三郎、詩の工藤惣助とともに「弘前の三奇童」といわれた。7、8歳のころに父親のそばで遊んでいた時、障子紙に墨で鐘馗の像を描きはじめたのだが、紙が短く全身を描き切れなくなったため、紙をはみ出して畳に両足を描いたという。その生気あふれる筆力を見た父親が、すぐさま平尾魯仙の門に入れたと伝わっている。山水を得意としたが、道釈画、人物画にも優れていた。
仙年は数多くのすぐれた作品を残したが、その功績は多くの門人を育てたことにある。主は門人としては、野澤如洋、工藤仙来、工藤晴好、高橋米舟、高橋竹年、木戸竹石、寺島泉岱、竹森華堂らがおり、明治以降の津軽の日本画壇は彼らによって進展していった。
三上仙年(1835-1900)みかみ・せんねん
天保6年弘前生まれ。弘前藩槍術師範・八木橋平馬の二男で、藩士・三上孫兵衛の養子になった。通称は英二、字は直英。初号は晃岳。別号に雅墨斎、松亭、仙翁などがある。はじめ松山雲章や福島晃山に学び、ついで万延元年に平尾魯仙に入門、魯仙門下第一の高弟といわれた。槍術の達人でもあり、藩の馬廻り組もつとめた。慶応3年藩命により上京して近衛家の警護にあたったが、廃藩となり画道に専念した。明治23年第3回内国勧業博覧会に出品した。明治33年、66歳で死去した。
青森(18)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県近代日本画のあゆみ展、津軽の絵師、津軽の美術史、青森県史叢書・近現代の美術家