儒者の家系に生まれた百川学庵(1799-1849)は、儒学、詩文にすぐれ、画は江戸で谷文晁に学んだ。学庵の父親・百川玉川は、江戸で太田錦城に学び、21歳で藩校稽古館の助教授になった優れた儒者だったが、学庵が6歳の時に没したため、学庵は一時弘前の本行寺に身を寄せ、のちに江戸に出て父の師である錦城に儒学を学んだ。
江戸でははじめ朝川善庵に画を学んだが、進歩がはかばかしくなく、谷文晁の画塾に出入りして絵の腕を高めていったという。儒学、詩文の才をかわれて文政4年に藩に召し抱えられたが、弘化3年藩意に沿わないと蟄居を命じられ、浪岡に移り寺子屋を開いたが、3年後に没した。頼山陽の息子で勤皇の志士として知られる頼三樹三郎と親しく、学庵の没後はその子は三樹三郎に引き取られている。
代表作の「津軽図譜」(全25景)は、津軽各地の景観をはじめ、鳥や魚の姿を描いたもので、江戸後期における津軽地方の情景を描いた絵画作品として高く評価されている。弘化3年に描かれた「鏡池春景之図」(掲載作品)は、左下に最勝院五重塔を配し、鏡池の向こうには残雪残る岩木山を望み、里には桜が咲き乱れている様を描いている。儒者だった学庵が藩の安定を願い、理想的な城下の姿を描いたものと思われ、画中には、その景地の優れたことを讃える詩文が書き込まれている。
百川学庵(1799-1849)ももかわ・がくあん
寛政11年生まれ。弘前藩士。百川屯助の第二子。通称は文平、名は子琢、字は璞、別号に檉斎、瓢園、蘭叢、太平楽民、硯池漁者、書田耕夫、山水遊客、半白書生、名山、名山楼などがある。父親は玉川と号した藩校稽古館の教師であり、兄も玉水といい、ともに儒者として活躍した。江戸に出て父親の師である太田錦城に学び、この時に谷文晁の画塾に出入りして画を学んだ。儒学、詩文にすぐれ文政4年藩に召し抱えられるが、弘文3年蟄居を命じられ、浪岡に移り住み寺小屋を開いたが、その3年後の嘉永2年、50歳で死去した。
青森(15)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史