毛内雲林の登場以来、津軽の南画は雲林門下の絵師を中心に展開していくが、なかでも雲林第一の高弟といわれた松山雲章は、多くの弟子を育て、幕末の津軽画壇で中心的役割を果たしていく。雲章が育った松山家は、代々町年寄をつとめ、領内各所に知行を得て藩政にも関わっていた。雲章は裕福な家庭環境のなかで、絵画ばかりでなく茶道や華道も学んだ。風雅を好み、「喫茶居」と名付けた居室では、朝夕釜をかけて湯を絶やすことはなかったという。謝礼を受け取らずに、望む者に絵を描き与えたことから、多くの作品が残っている。息子の雲随も絵をよくしたとされるが、父に先んじて早世した。
また、雲林門下では多くの商人も画を学んでいる。片谷楽斎と矢部弗山は、ともに酒造業を営む藩内きっての豪商で、特に片谷楽斎は弘前藩の御用商人で、当時弘前第一の豪商だった。文人としても知られ、書は古法帳を習い、北岡虚舟ら文人と深く交友した。矢部弗山は屋号を菱屋という造り酒屋に生まれ、名は義貞、武兵衛とも称した。画はもちろん、書、俳諧もよくした。幕末の弘前城下では、俳諧などをめぐる文化的交わりが広く行なわれており、画を描くことは、基本的教養のひとつとして行なわれていたと思われる。
松山雲章(1805-1879)まつやま・うんしょう
文化2年弘前生まれ。花田繁太郎の三男で、町年寄松山彦太郎の養子になった。名は由之、彦左衛門と称した。幼いころから画を好み、毛内雲林に師事して、画、茶道を学んだ。明治12年、75歳で死去した。
青森(10)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代日本画のあゆみ展