画人伝・京都 南画・文人画家 山水・真景

池大雅とともに日本南画の大成者とされる与謝蕪村

与謝蕪村「夜色桜台図」(部分)国宝

与謝蕪村「夜色桜台図」(部分)国宝

与謝蕪村(1716-1783)は、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれた。早くに両親と家産を失ったが、少年の頃から俳句をはじめ、20歳以前には江戸に出て、22歳の時に日本橋の俳諧師・夜半亭宋阿の門に入った。一方で服部南郭にも師事し、漢詩を学んだと思われる。

27歳の時に師の宋阿が没したのを機に江戸を去り、以後下総(茨城県)の結城や下館あたりを中心に北関東地方を約10年間、浄土宗の僧侶として遊歴した。その間、松尾芭蕉の奥の細道にならって東北を旅し、松島から津軽にまで足を延ばした。

宝暦元年、36歳の時に木曽路を経て京都に上った。この翌年に彭城百川は没しているが、蕪村は、俳人であり職業画家でもあった百川を意識していたと思われ、百川が試みたような明末蘇州派の画法をもとにした山水画を描いていることから、京都では百川と接触していたと考えられている。また、多くの古社寺を訪れ、絵画に接していたようで、この頃には画家になる決意を固めたと思われる。

画家を志した蕪村は、39歳で京都を去り、母の故郷である丹後の宮津見性寺に留まり、本格的な画の道に入り、『芥子園画伝』などに学び精力的に絵画制作に励んだ。この頃は、南画や俳画とは関係のない漢画風の固い線描のものや、雲谷派の影響を受けた作品など、様式・画風の振り幅は大きく、作風は一定していない。

42歳で京都に戻った蕪村は、明清の文人画風に接近している。享保16年に長崎を訪れた沈南蘋の馬図などの写生風の表現や着彩法にも学び、中国風に謝長庚・謝春星の落款を用いて詩情性豊かな作品を制作している。この時期は、いわゆる屏風講時代と呼ばれ、屏風の大作も多く制作している。

明和3年、51歳の時に四国讃岐に赴き、水墨画を主として描いた。3年後に京都に帰る際に丸亀妙法寺に描いた「蘇鉄図」襖絵などにみられるような、滋潤な墨色で墨そのものの美しさを強調する方向を見出した。

53歳で京都に帰り、長かった遊歴の生活をようやく終え、以後京都に定住し、俳諧と絵画制作に専念した。明和7年、55歳の時には夜半亭2世を継ぎ、京都俳諧における地位も確立した。池大雅の「十便図」に対し「十宜図」を描いたのは、この翌年のことだった。

安永3年、59歳の頃から病気がちになるが、画家としても俳人としても大成期に入り、特に63歳から68歳で没するまでの最晩年の6年間は、その頃用いていた「謝寅」から謝寅時代と呼ばれ、多くの傑作を残している。

与謝蕪村(1716-1783)よさ・ぶそん
享保元年摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)生まれ。本名は谷口、のちに与謝と改めた。名は信明、または寅。字は春星。別号に夜半亭、謝寅などがある。享保20年頃までに江戸に出たと思われる。元文2年俳人・夜半亭宋阿に入門。寛保2年江戸を去って約10年間北関東・東北を放浪。延享元年初撰集『寛保四年宇都宮歳旦帖』を刊行。はじめて「蕪村」の号を用いた。宝暦元年京都に上り、宝暦4年『夜半亭発句帖』に発句一句および跋文を寄せた。同年夏までに京都を去って丹後宮津に赴き3年間滞在。宝暦7年京都に戻り氏を「与謝」に改めた。宝暦10年この頃結婚したと思われる。明和3年太祇、召波らと俳諧結社「三菓社」を結成。明和7年夜半亭2世を継承。明和8年池大雅の「十便図」に併せ「十宜図」を揮毫。同年京都木屋町に滞在中の木村蒹葭堂を訪ねている。天明3年暁台主催の芭蕉百回忌の法要に参加。晩秋から初冬にかけて持病の胸痛に苦しみ、同年、68歳で死去した。

京都(90)-画人伝・INDEX

文献:日本絵画名作101選、日本美術全集14、日本美術絵画全集・第19巻、美のワンダーランド十五人の京絵師、江戸絵画入門、文人画家の譜、日本の南画、もっと知りたい文人画、日本画家人名事典




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