
土佐光貞「大嘗会屏風」のうち「主基屏風」(部分)
土佐派として1世紀ぶりに宮廷絵所預への復帰を果たした土佐光起の跡は、子の光成がその職を継ぎ、さらにその子光祐へと受け継がれ、その後も光芳、光淳、光時、光禄、光文と代々土佐家の父子によって継承された。また、光淳の弟・光貞は別家をたて、光孚、光清、光武がその跡を継いだ。
光祐の跡を継いだ光芳は、元文3年に桜町天皇の即位に際して大嘗会が復興されると、大嘗会の悠紀・主基屏風を描いた。これが先例となって寛延元年の桃園天皇の大嘗会屏風を光芳の子・光淳が、明和元年の後桜町天皇の大嘗会屏風を光淳の弟で別家を立てた光貞がと、代々土佐派が大嘗会屏風を描き、これは孝明天皇の代まで続いた。
大嘗会屏風とは、天皇が即位した際に行なわれる一代の大祭・大嘗会の際に制作される屏風で、東方の悠紀国、西方の主基国から一国を選び、その地の名所を詠んだ和歌を色紙形に記し、その景色が描かれた。掲載の土佐光貞筆「大嘗会屏風」は、後桜町天皇の時のもので、現存最古の大嘗会屏風とされる。
近世における土佐派は、室町時代以前のようにやまと絵を独占するようなことはなかったが、内裏の障壁画や大嘗会の悠紀・主基屏風の制作などを手掛け、幕末に至るまでやまと絵の主流画派として重要な地位を占め続けた。
土佐光成(1647-1710)とさ・みつなり
正保3年生まれ。土佐光起の長男。幼名は藤満丸、左衛門尉。法名は常山。父より画を学び延宝9年父の跡を継いで宮廷絵所預となり、内裏、仙洞御所の画事をつとめた。宝永7年、65歳で死去した。
土佐光祐(1675-1710)とさ・みつすけ
延宝3年生まれ。土佐光成の子。幼名は藤満丸、左衛門尉。初名は光高。法名は常心。元禄9年父の跡を継いで宮廷絵所預となった。宝永6年狩野常信らとともに内裏、仙洞御所に障壁画を描いた。宝永7年、36歳で死去した。
土佐光芳(1700-1772)とさ・みつよし
元禄13年生まれ。土佐光祐の子。幼名は藤満丸。法名は常覚。父の早世により宝永8年11歳で宮廷絵所預となった。元文3年桜町天皇の大嘗会屏風を制作した。明和9年、73歳で死去した。
土佐光淳(1734-1764)とさ・みつあつ
享保19年生まれ。土佐光芳の長男。土佐光貞の兄。幼名は藤満丸、のち光直。延享元年宮廷絵所預となった。寛延元年桃園天皇の大嘗会屏風を制作した。明和元年、31歳で死去した。
土佐光貞(1738-1806)とさ・みつさだ
元文3年生まれ。土佐光芳の二男、土佐光淳の弟。幼名は茂松(丸)、字は士享。号は廷蘭。宝暦4年分家して宗家の兄とともに宮廷絵所預となった。明和元年後桜町天皇の大嘗会屏風を制作した。寛政2年の内裏造営の際宗家の土佐光時をたすけ障壁画の制作にあたった。文化3、69歳で死去した。
京都(75)-画人伝・INDEX
文献:近世やまと絵50選、やまと絵日本絵画の原点、もっと知りたいやまと絵







