のむら清六(1916-1995)は、山梨県西八代郡下九一色村(現在の市川三郷町)に生まれた。高等小学校卒業後、横浜の親戚が営んでいた石原製綿所に寄宿し、手伝いのかたわら絵を描いた。画家志望が強く、16歳の時に両親と親戚を説得して上京、川端画学校夜間部に入り、職を転々としながら絵を学んだ。先輩に小松均、岩崎巴人、谷口山郷らがいた。
昭和18年、27歳の時に横須賀海軍に徴用され、昭和20年の終戦ととも退役、石川県小松市に転居した。その間、画友の谷口山郷を頼って富山県朝日町に逗留。その後も数回訪れ、のちに漫画家となる根本進宅に寄宿して挿絵を描きながら、福田豊四郎のグループに入り新制作展に出品した。
昭和25年頃から小説新潮、オール読物などの挿絵やカットの仕事が入るようになり、昭和27年、36歳の時に山梨日日新聞文化欄に挿絵、カット、随筆、詩などを発表し、山梨県立図書館で個展も開催した。この頃から新興美術院に出品するようになる。
一方、同郷の俳人・飯田蛇笏・龍太親子と知り合い、蛇笏が主宰する俳句雑誌「雲母」の表紙画を約1年担当した。
昭和33年、新興美術院を退会し、岩崎巴人、谷口山郷、長崎莫人らとともに日本表現派を結成し、昭和36年の第4回展まで出品したがその後退会し、以後は団体を離れて個展を中心に発表し、中国北京で墨彩画展を開催するなど独自の活動を続けた。
のむら清六(1916-1995)のむら・せいろく
大正5年山梨県西八代郡下九一色村(現在の市川三郷町)生まれ。本姓は野村、旧姓は石原。昭和8年上京して川端画学校夜間部に入学し、同校専科を卒業後の昭和18年に徴用された。その間に結婚して野村姓になった。退役後の昭和24年から小説の挿絵を描き、昭和27年からは山梨日日新聞文化欄に挿絵や随筆の発表をはじめた。また、同年から新興美術院に参加するようになり、昭和33年まで毎年出品を重ねた。後年は東京の画廊を中心に個展を勢力的に開催し、昭和50年第1回日仏現代美術展で大賞を受賞した。平成7年、79歳で死去した。
山梨(30)-画人伝・INDEX
文献:のむら清六展 日本表現派の主張3、山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨に眠る秘蔵の日本美術