三枝茂雄(1920-1989)は、山梨県甲府市に生まれた。生家は二代続いた製材業、製車業を営んでいた。4歳頃から書の手習いを始め、13歳頃には飯田蛇笏主宰の「雲母」に俳句を投句、また、中川宗淵に傾倒し、文学、歴史、仏教関係の哲学書、漢籍に親しんだ。16歳の時に叔母より美術全集を譲られ、絵画に親しむようになり、昭和14年東京美術学校日本画科に入学、在学中は植物写生に専心し、また、図書館に通い中国古画を模写した。
昭和18年、戦争により同校を繰り上げ卒業し、同年中華民国南京日本中学校に美術教師として赴任した。昭和20年に現地で応召し中国各地を転戦、その間に左眼を失明した。翌21年に帰国して湯田高等女学校(現在の甲府湯田高等学校)に赴任、教育のかたわら制作を続け、昭和22年に甲府市朗月堂書店で色紙展を開催した。この頃から表現力に共鳴して油彩画を手がけるようになった。
昭和25年の第24回展から国画会に油彩を出品するようになり、主にキリスト教に題材をとった作品を発表した。昭和42年、47歳の時に国画会会員となったが、この頃から水墨着彩画を手がけるようになり、詩書画一致の思想から独自の表現を見出し、油彩画主体の国画会においてひとり日本画を発表し続けた。
昭和48年には8年間つとめた県立甲府第一高等学校を退職して画業に専念するようになり、以後は国画会とともに、資生堂ギャラリー、彩鳳堂画廊などの画廊で毎年のように個展をし、晩年まで精力的に活動した。
三枝茂雄(1920-1989)さえぐさ・しげお
大正9年甲府市生まれ。本名同じ。別号に世外民がある。昭和14年東京美術学校日本画科入学、昭和18年の同校卒業とともに中華民国南京日本中学校に赴任した。戦時中は中国各地を転戦して左眼を失明した。昭和21年帰国して湯田高等女学校(現在の甲府湯田高等学校)に赴任、つづいて 山梨県立都留高等学校、県立臨時教員養成所(現在の都留文科大学)で教員をつとめ、そのかたわら油彩画を手がけるようになった。昭和25年第24回国画会展に初出品。昭和29年の第28回国画会展ではプールブー賞を受賞。2年後に同会会友となり、昭和42年には会員となった。教員のかたわら制作を続けていたが、昭和48年に県立甲府第一高等学校を退職してからは画業に専念し、毎年のように個展を開催し作品を発表した。昭和56年からは池田遙邨、小松均らとともに「四元展」に出品した。平成元年、69歳で死去した。
山梨(29)-画人伝・INDEX
文献:山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨に眠る秘蔵の日本美術、山梨県立美術館蔵品総目録6 2008-2015