大和郡山藩で柳沢吉里・伊信の二代に任えた柳沢淇園(1703-1758)は、早熟多才で、なかでも画才に恵まれ、8、9歳頃から狩野派を学んでいたが、12、3歳の時には狩野派を骨髄を得ないと批判し、明清画を学ぶため長崎派の渡辺秀石門下・英元章(吉田秀雪)に師事した。
藩でも重要な責務を果たしていたが、その公務の傍ら絵画制作を行ない、祇園南海、彭城百川らとともに、日本南画の先駆者のひとりに数えられている。池大雅に大きな影響を与えたことでも知られている。その後日本南画は、池大雅、与謝蕪村らが大成させ、江戸後期までに浦上玉堂、谷文晁らが登場し、江戸時代を通じて広く全国に普及していった。
淇園が生まれたのは、柳沢吉保が甲斐国を領有した年で、淇園は、その生まれた年から少年期にかけて甲斐国で育っている。父親の曾禰保挌は、柳沢吉保の筆頭家老で、吉保からの信頼も篤く、柳沢の姓と吉保の一字「保」を与えられた。さらに淇園も吉保の子・吉里に仕え、柳沢の姓と吉里の一字「里」を与えられ、中国風に「柳里恭」とも名乗った。
淇園の幼少期は、柳沢吉保・吉里父子の統治のもと、甲府が栄華を極めていた最盛期で、吉保のもとには儒者の荻生徂徠や服部南郭ら多くの文化人が集い、淇園はその最先端の文化を吸収しながら成長し、書画のほか、詩文、易学、天文、音楽、製薬にまで秀でていたという。
藩政においても将来を嘱望され、享保9年、21歳の時に藩主・吉里が甲府から大和郡山への転封を命じられた際には、江戸への使者をつとめ、享保12年には、家老の次席にあたる大寄合となった。
しかし、翌享保13年に、事情は明らかではないが謹責処分を受け、家督家禄の剥奪、寄合衆への降格、宇佐美九左衛門への改名などの処分を受けた。一説には有能な淇園の態度が驕りと捉えられ、それを藩主・吉里が戒めたとも考えられている。その謹慎は短期間で許され、享保15年には柳沢姓に戻り寄合衆筆頭に復帰したが、再び大寄合の地位に戻るまでには25年の歳月を要した。
柳沢淇園(1703-1758)やなぎさわ・きえん
元禄16年江戸生まれ。柳沢吉保の筆頭家老・曾禰保格の二男。別名は柳里恭。本名は柳沢里恭。幼名は権之助、名は貞貴、字は公美。初号は玉桂。8歳の時に馬廻役二千石の殊遇を得て、享保3年に15歳で元服するにあたり、二代藩主・吉里から柳沢の姓を与えられ、柳沢帯刀貞貴となり、享保12年には吉里の一字を拝領して諱を里恭と改め、中国風に「柳里恭」とも称した。享保9年主家の大和郡山転封に伴い21歳の時に大和郡山に転居、享保13年、事情は明らかではないが謹責処分を受けたが間もなく許され、享保15年には兄保誠の後嗣勝熊の夭折によってその家督を継ぎ、柳沢の称号に復し二千五百石となった。以降、寄合衆筆頭、大寄合を歴任した。随筆集『ひとりね』などの著書がある。宝暦8年、55歳で死去した。
山梨(03)-画人伝・INDEX
文献:柳沢淇園-文雅の士・新奇の画家、柳沢吉保と風雅の世界