文化・文政期に活躍した山形・村山地方の絵師に、漆山村(現在の山形市)の設楽東玉斎がいる。東玉斎は、天童奈良沢の菱沼家に生まれ、のちに漆山の設楽家に入り設楽姓を名乗るようになった。生い立ちは不明だが、生来絵を描くのが巧みだったため、漆山の上州館林秋元藩分領だった漆山陣屋付きの絵師として仕えた。近郷に画技の力量が評判になって、門人を抱えるようになったという。
その門人のなかに、山形日本画壇の祖といわれる柳沢村(現在の中山町)の西塔太原がいる。太原は、はじめ東玉斎に学び「琴岱」と号していたが、30歳頃に江戸に出て谷文二に学び、天保8年刊「江戸百名家画帳」に作品が掲載されたことにより、文二の父・谷文晁への入門が許可されたという。作品は、中山町、山形市などに多く残っている。
設楽東玉斎(不明-不明)したら・とうぎょくさい
本名は清治郎。別号に松昌、松笑がある。天童奈良沢の菱沼家から漆山の設楽家に養子に入った。漆山陣屋付きの絵師。門人に西塔太原、玉岱(半沢弥惣)、如仙(矢萩清助)、戸田伴七らがいる。彼らの描いた絵馬が若松寺、立石寺などに残っている。東玉斎の絵は、漆山の遍照寺に絵馬「地獄極楽図」がある。
山形(18)-画人伝・INDEX
文献:村山の歴史、天童美術の流れ展、郷土日本画の流れ展