酒田の本間家分家に生まれた本間北曜は、天保13年、出羽矢島藩の小番郡八の養子となり藩主に従って江戸へ上るが、翌年出奔して離縁になった。この頃、小石川巣鴨の根付師・山口友親(初代竹陽斎)ついて彫刻を学び、葛飾北斎の門人となり、北曜と号した。
嘉永元年、江戸、大坂、下関を経て長崎を訪れ、頴川藤三郎らと交流、同年11月江戸に戻り、蘭学者・杉田梅里に入門した。安政に入り、清河八郎、榎本武揚、ジョン万次郎らと交わり、勝海舟より嘱望されて安政2年に勝塾の蘭学教授となった。同年3月、再び長崎に行き、オランダの宣教師フルベッキに英学を学んだ。
文久2年、ロンドン、パリ、ロシア、中国、米国ニューヨークなどを訪問し、帰国後は、薩摩藩主・島津斉彬の依頼で、西洋学館(鹿児島開成所)の英学教授を慶応2年までつとめた。この頃、前島密、小松帯刀、西郷隆盛、伊地知正治らと交流している。
慶応2年、大坂で「薩州商社」という日本初の株式会社の設立を画策し、各藩、富豪に1株5千両の出資を呼びかけて各地を奔走。慶応3年、酒田に帰り本間本家を勧誘し了解を得たが、薩摩藩と対立していた庄内藩に、薩摩のスパイと疑われ、翌4年、叔父にあたる池田之兵衛宅に幽閉され獄死、藩医の薬による毒殺と伝わっている。
絵の師である北斎とは、親密な交流が続いていたとみえ、北斎の筆による「鬼図」(佐野美術館蔵)には、図中に「門人北曜子おくる」と書き込まれており、北斎が日課にして描いていた獅子図「日新除魔」十図を北曜が酒田に持ち帰っているのも確認されている。また、北曜の画稿をまとめた「北曜手控帖」が残っており、北曜の画技の高さがうかがえる。
掲載の「黒船図」は、嘉永6年に来航した米国艦隊を現地で写生した図をもとに、江戸で描いたものと思われる。当時、黒船は江戸庶民にとっても最大の関心事で、皆がその姿を見たがったといい、洋学を志す北曜に黒船図の制作注文が殺到したと思われる。
本間北曜(1822-1868)ほんま・ほくよう
文政5年酒田生まれ。本間家分家・本間国光の二男。名は光喜、字は有得、幼名は規矩治。のちに出羽矢島藩の小番郡八の養子となって郡兵衛と名を改めた。天保13年藩主に従って江戸へ上るが、翌年養家を出奔して離縁となり、神田弁慶橋の島南甫宅に住んだ。この頃、山口友親(初代竹陽斎)ついて彫刻を学び、葛飾北斎の門人となり「北曜」と号した。嘉永元年、28歳の時、蘭学者・杉田梅里の門に入った。嘉永6年に浦賀で黒船を写生。安政2年には蕃書調所の所員として洋学の翻訳に従事し、翌年には長崎で宣教師フルベッキに英語を学んだ。文久2年欧米、中国などを訪問。帰国後は西洋学館(鹿児島開成所)の英学教授をつとめた。慶応3年日本初の株式会社「薩州商社」の設立のため、酒田に帰り本間家本家に投資を勧誘するが、薩摩のスパイと疑われ幽閉され獄死、毒殺されたと伝わっている。明治元年、47歳で死去した。
山形(10)-画人伝・INDEX
文献:酒田市史史料篇第7集、北斎一門肉筆画傑作選 北斎DNAのゆくえ、新編庄内人名辞典、原色浮世絵大百科事典第2巻