米沢に生まれた下條桂谷は、はじめ郷里で目賀多家で狩野派の画法を学び、のちに江戸に出て鍛冶橋狩野家の門に入ったとされる。明治8年には狩野探美らと古書画鑑賞会を興し、明治12年に龍池会の結成に参加した。
同会が日本美術協会に改編されたのちは、制作活動とともに会の運営面で手腕を発揮し、明治34年からは金子堅太郎の後任として同会の展覧会審査長をつとめるなど、保守的伝統派の重鎮として指導的役割を果たした。
また、海軍主計大監、海軍主計学校校長を歴任したほか、明治30年には貴族院議員に選ばれるなど、政官界でも幅広い活動をおこなった。
下條桂谷(1842-1920)げじょう・けいこく
天保13年米沢生まれ。米沢藩士・下條半兵衛の長男。幼名は芳太郎、本名は正雄。別号に雲庵がある。幼いころから米沢藩の御用絵師目賀多雲川に狩野派を学び、22歳の時に一時江戸に出て鍛冶橋狩野家の門に入ったとされる。その後帰郷し、戊辰戦争では製図方として越後へ従軍。維新後、明治3年に兵部省へ出任し、海軍省大秘書、主計少書記、主計大監などを歴任し、海軍主計学校校長に補されたのち、明治25年予備役編入となり、5年後には貴族院議員に勅撰された。明治12年、佐野常民らと龍池会(のちの日本美術協会)を結成し、同会の指導者として手腕を振るった。明治37年には、セントルイス万国博覧会に出品し金牌を受賞。また、帝室博物館の評議員をつとめた。大正9年、79歳で死去した。
山形(6)-画人伝・INDEX
文献:再発見日本の書画の美3、米沢ゆかりの絵師たち、郷土日本画の流れ展