高岡の町は江戸後期になって銅器、漆器、染物など美術工芸品の販路が広く確保され、商工業が盛んになった。特に、文政・天保期以降、問屋制の確立に伴い格段の発展を遂げ、それらの製品の図案作成の必要性も生まれてきた。この頃になって現れたのが、高岡最初の町絵師・堀川敬周である。
堀川敬周(1789頃-1858)は、高岡堀上町の染物屋に生まれ、画師・堀蠖翁の養子となって高岡片原中嶋町に住んだ。家業の染物図案を描いていたが、画家を志して京都に出て四条派の紀広城に学び、ついで東東洋に学んだ。
敬周が京都から高岡に戻った時期は不詳だが、高岡に残された最も古い作品から20代後半だと思われる。俳諧も嗜み、瑞龍寺18世の閑雲や金沢の俳人・梅室をはじめとした漢詩人ら多くの文人墨客と親交を持ち、俳画や風俗画も多く描いている。
敬周は高岡の町人ら多数の弟子を育成したと伝わっているが、その門人のひとりである高田蕙圃(1825-1879)は、敬周に学んだのち京都に遊学し、帰郷後は銅器、漆器、仏壇の図案の指導、改善に尽力し、幕末から明治初期の高岡美術工芸産業の躍進に貢献した。
堀川敬周(1789頃-1858)ほりかわ・けいしゅう
高岡堀上町生まれ。紺屋・湊屋平助の二男。その後高岡片原中島町の堀蠖翁の養子となった。京都に出て紀広成に学び、ついで東東洋に師事した。20代後半頃に帰郷し市井で作画活動をする町絵師として活躍した。安政5年、70歳近くで病没したと思われる。
高田蕙圃(1825-1879)たかだ・けいほ
文政8年高岡鉄砲町生まれ。通称は欣右衛門。酒造業・米屋弥三兵衛の二男。堀川敬周に5年間師事したのち京都に出て小田海僊に数年学び帰郷した。花鳥人物を得意とし、中村桂月、黒谷雪圃、井上春圃、高森美堂ら多くの工芸家に画業を継承した。明治12年、55歳で死去した。
富山(16)-画人伝・INDEX
文献:高岡の絵師