近代歴史画の父・小堀鞆音が開拓した新しい歴史画は、安田靫彦や前田青邨ら多くの画家たちによって引き継がれていったが、時の流れとともに日本画は新しさを求めて多様化していき、歴史画は次第に画家たちの興味の対象から外れていってしまった。しかし、そのような風潮のなか、鞆音に学んだ羽石光志(1903-1988)は、奇抜なアイデアを持ち込むことなく、一貫して伝統的な歴史画を描いて昭和の時代に伝え、「最後の近代歴史画家」と称されている。
栃木県芳賀郡茂木町に生まれた羽石は、専売局に勤務していた父の仕事の関係で、幼少時に栃木県大田原市に移住した。その後、5歳の時に一家で上京、父は上野駅前で外国煙草や海苔、缶詰などを扱う商売を始めた。
羽石は、小学校に入学した頃から絵画に興味を持つようになり、特に馬の絵を好んで描いていた。中学校に入学すると、歴史人物画を得意としていた山川永雅に日本画の基礎を学び、13歳で小堀鞆音の門人となった。鞆音のもとでは、有識故実の研究や時代考証の大切さ、模写の重要性を学び、以後の画業の基礎とした。
16歳で川端画学校に入学して19歳まで学んだが、その後はしばらく絵から遠ざかり、父とともに「香蘭」というカフェを営んでいた。23歳で京都絵画専門学校に入学することを決意するが、周囲の事情により断念し、「香蘭」を閉店して日暮里渡辺町に単身で転居、画家を再度目指すことになった。この頃、「幼年の友」「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「キング」などの挿絵描きの仕事を得て、以後晩年まで出版関係の仕事を続けた。
28歳の時に兄弟子だった川崎千虎に師事、翌年の第14回帝展で初入選した。昭和11年の文展にも入選したが、35歳の時に安田靫彦に入門し、以後は院展を舞台に活躍した。
一方で、絵画研究や文化財保存に尽力し、昭和31年には歴世服飾研究会の結成に参加して世話人となり、翌年には研究会「黄土会」を結成した。また、昭和42年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加、昭和46年には日光東照宮陽明門天井板絵「双龍図」復元の仕事に従事した。
羽石光志(1903-1988)はねいし・こうじ
明治36年栃木県芳賀郡茂木町飯野生まれ。本名は弘志。専売局に勤務していた父の仕事の都合で幼児期に大田原市に移住した。明治41年に一家で上京。大正5年小堀鞆音に師事、また川端画学校にも学んだ。昭和8年第14回帝展に初入選。同年の紀元2600年奉祝展にも入選した。昭和15年から安田靫彦に師事し、以後は院展に出品した。昭和16年雅号を本名から「光志」に改号。昭和17年第29回院展で日本美術院賞を受賞、以後32回展、40回展でも同賞を受賞。昭和55年の第41回展で日本美術院次賞を受賞し、同年日本美術院同人となった。その後評議員、理事を歴任した。昭和63年、85歳で死去した。
栃木(31)-画人伝・INDEX
文献:近代歴史画と羽石光志、栃木県立美術館所蔵品1972-1982