下野国出身の狩野派の絵師としては、足利の生まれとされる(伊豆出身とする説もある)の狩野興以(1569-1636)がいる。興以は、狩野永徳の息子光信の門人で、桃山時代から江戸時代初期に活躍した。光信の弟孝信の没後、探幽、尚信、安信の三兄弟の後見となって指導にあたり、その後の江戸狩野隆盛の礎を築き、その功績によって狩野姓を許された。のちに法橋に叙され、徳川御三家のひとつ紀州徳川家の絵師をつとめた。
狩野昌運季信(1637-1702)は、寛永14年、宇都宮大町の岩本長右衛門の子として生まれ、江戸に出て、狩野派宗家の中橋狩野・永真安信に入門した。狩野派の理論書である安信の『画道要訣』を筆録し、自らも狩野派の資料集『昌運筆記』を記している。晩年の元禄3年に筑前福岡藩の御用絵師となり、延宝年間の内裏造営や福岡城の障壁画制作に携わり、福岡に多くの作品を残している。代表作は東京都護国寺の天井画「雲龍図」。
表絵師・深川水場狩野家の梅春貞信(不明-1858)も宇都宮出身とされる。経歴については不明な点が多いが、江戸に出て深川水場狩野家に入門して高弟となり、梅春貞信と称し、請われて同家を継いだという。嘉永の日光東照宮修復の際には、江戸幕府御用画員として従事している。
狩野貞信(不明-1858)かのう・さだのぶ
宇都宮池上生まれ。江戸幕府御用画員弟子の菊地愛山の寿碣銘碑の文中に梅渓鈴木賢直とある。染物屋で坪谷姓であるともいう。江戸に出て、山下狩野家の末裔梅栄知信が別家して興した深川水場狩野家に入門し、同家を継いだ。嘉永の日光東照宮修復の折には弟子の愛山とともに従事している。宇都宮市内近隣の大運寺境内に顕彰碑(戸田香園建立)があったとも伝わっているが、現在は確認できない。代表作に彦根城博物館の「関ケ原合戦屏風」がある。地元の正行寺には「鶴図屏風」など梅渓落款の若い時の作品も残っている。安政5年死去した。
栃木(6)-画人伝・INDEX
文献:とちぎ美術探訪、栃木の美術