画人伝・滋賀 日本画家 風景画

世界平和を願い各国要人に富士の絵を贈った山元桜月

山元桜月「日枝山より琵琶湖を望む」(部分)滋賀県立美術館蔵

山元桜月「日枝山より琵琶湖を望む」(部分)滋賀県立美術館蔵

山元桜月(1887-1985)は、滋賀県大津市白玉町(現在の大津市浜町)に生まれた。山元春挙は叔父にあたる。16歳の時に春挙の門に入り「春汀」の号を与えられた。明治40年に文展が創設されるとその第1回展に入選し、その後も文展、帝展、新文展と官展に出品を続けた。

昭和8年、師の春挙が没すると、生前の春挙の助言に従い、精神性を追究するために山梨県の山中湖畔に移住し、雅号を「桜月」に改めた。その後も新文展に出品したが、昭和18年の第6回新文展に「富嶽の神秘」を出品したのを最後に画壇から距離を置き、自らが美の極致と考えた富士山の描写に専念した。

その徹底して富士山を描く姿勢は、自らも多くの富士の作品を描いている横山大観が「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評するほどだったという。97歳で没するまでひたすら富士を描き続けた桜月は、終戦後、世界平和と相互信頼の実現を目指し、完成した富士の作品を世界各国の要人たちに寄贈し続けた。

山元桜月(1887-1985)やまもと・おうげつ
明治20年滋賀県大津市白玉町(現在の大津市浜町)生まれ。山元春挙の甥。本名は三郎。明治36年山元春挙に入門し春汀と号した。明治40年第1回文展入選。以後文展・帝展に出品した。昭和8年師の春挙が死去し、この機に桜月と改号。以後も帝展・新文展に出品、昭和18年第6回新文展に「富嶽の神秘」を出品した頃から世俗を離れ「神嶺として観る富士山」の描写に専念。その作品を世界平和と相互信頼の実現を目指して機会あるごとに世界各国の指導的地位のある人に献呈した。昭和60年、97歳で死去した。

滋賀(33)-画人伝・INDEX

文献:近江の画人、滋賀県の日本画




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