長谷川玉純(1863-1920)は、四条派の画人・長谷川玉峰の長男として京都に生まれた。弟も画家で、雅号を「玉粋」といった。兄弟の雅号は「純粋」の語を1字ずつとり、父の雅号「玉峰」の1字に合わせたものだという。
玉純は父に画の手ほどきを受け、明治20年、25歳の時に新古美術会に出品した作品が天皇御用品として買い上げとなるなど20代で画壇での地位を固め、明治24年に結成された青年作家懇親倶楽部では、竹内栖鳳、谷口香嶠らとともに委員に選出された。
同年開催された京都青年絵画共進会では菊池芳文、竹内栖鳳、山元春挙とともに審査員をつとめ、その後もシカゴ万国博覧会で受賞するなど、京都での画業は順調だったが、33歳の時に父玉峰ゆかりの大津に移り住み、40歳頃からは公募展に出品することもなくなった。
大津では、大津栄泉寺に新しく建立された書院に画室を持ち、栄泉寺堂内の鳳凰の壁画、控の間の虎、富士、竹を描いた襖絵のほか、栄泉寺の近隣にある長寿寺の孔雀を描いた襖絵など、多くの作品を手掛けた。また、画業のかたわら明治40年からは大津尋常高等小学校の図画教員となり、隣接する大津実科女学校でも教鞭をとった。
大津の町に溶け込んだ暮らしは16年に及び、大正元年頃に京都に戻った。玉純が親しい人に語ったところによると、園城寺境内の大津の町が見渡せる場所に庵を建て、自己の画系につながる呉春、景文、玉峰らの先人を祀ることを願っていたという。
長谷川玉純(1863-1920)はせがわ・ぎょくじゅん
文久3年京都生まれ。長谷川玉峰の長男。名は師精。父玉峰に画を学んだ。明治20年新古美術会で天皇御用品として買い上げ。明治24年京都青年絵画共進会で審査員をつとめ自ら出品し3等賞受賞。明治26年米国シカゴ万国博覧会で受賞。明治28年第4回内国勧業博覧会で褒状。明治29年第1回日本絵画協会共進会で2等褒状。同年大津に移住し、小学校の図画教師をつとめるかたわら多くの作品を残し、大正元年頃京都に戻った。門下に疋田春湖がいる。大正10年、58歳で死去した。
滋賀(27)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち