広瀬柏園(1801-1871)は、彦根城下に生まれた。彦根藩士の子とされていたが、四十九町(現在の城町)に住んでいた町人代官の広瀬治良右衛門順固の子という説が有力となってきている。父は岸駒に師事した画人でもあり、やはり岸駒に学んだ同門の白井華陽が著した『画乗要略』によると、牛馬の絵を得意にしたという。
父に画を学んだと思われる柏園は、のちに大津に出て三井寺の円満院門跡・覚淳法親王につかえた。覚淳の影響か、洗練された洒脱な画を多く残しており、山水画や山水のなかに故事を描くことを得意とした。多才な人で、俳名を湖上半漁と称して俳句をよくし、俳画を描き、書にも長じていた。
覚淳法親王は芸術家のパロトンだったと思われ、陶工の永楽保全も円満院門前に窯を築いて三井御浜焼を焼成している。柏園も保全と親交し、その陶器に絵付けなどをしている。また柏園は、覚淳のつてにより禁中の御用をつとめて画を描いたこともしばしばあったと思われる。
広瀬柏園(1801-1871)ひろせ・はくえん
享和元年彦根城下生まれ。父は町人代官の広瀬治良右衛門順固。名は明、字は子喆、または十哲。別号に萬岳、老幅軒などがある。父に画を学んだと思われ山水画を得意とした。大津に出て三井寺の円満院門跡・覚淳法親王につかえた。安政2年から始まった安政度の内裏造営に際して障壁画制作に参加した。大津祭の神功皇后山の曳山の天井画などの作例もある。明治4年、71歳で死去した。
滋賀(16)-画人伝・INDEX
文献:彦根ゆかりの画人、近江の画人、近江の画人たち