大津で「九老さん」と親しみを込めて呼ばれている画人・紀楳亭(1734-1810)は、山城の鳥羽に生まれ、与謝蕪村に画と俳諧を学んで京都で活動していたが、天明8年の天明の大火を機に、蕪村門下で同門だった長寿寺の僧・龍賀をたよって、50代半ばで妻子を伴って大津に移り住んだ。
その後、77歳で没するまで大津を拠点に活動し、「九老」あるいは「湖南九老」の号を主に用いた。56歳の時に一人娘を亡くし、68歳で妻を亡くすなど不幸もあったが、俳諧を通じて交友した大津の人々に物心ともに支えられながら旺盛な制作活動を行ない、作品はむしろ古稀を過ぎてからのものが多い。
蕪村門下には、楳亭のほか、松村月渓(1752-1811)がいたが、月渓がのちに円山応挙門下に移り四条派の始祖となって大成したのに対し、楳亭は蕪村の仕事を忠実に継承して多彩な作品を残し、いつしか「近江蕪村」と呼ばれるようになった。
明治42年、楳亭の没後100年を記念して青龍寺で開催された「湖南九老展」には、本堂を埋め尽くすほどの作品が陳列されたという。それらの作品は海外に渡ったものも多いが、今でも多くの楳亭作品が大津の人々によって大切に守り伝えられている。
紀楳亭(1734-1810)き・ばいてい
享保19年山城国鳥羽生まれ。通称は立花屋九兵衛。名は時敏、字は子恵、仲文。別号に巌郁があり、還暦後は主に九老とした。楳亭は梅亭とも表記される。はじめ岩城藍田の家で家僕をしていたが、やがて藍田の友人である与謝蕪村に師事し、画と俳諧を学んだ。天明8年の京都大火を機に大津鍵屋町に移り住み、湖南九老と署名するようになった。師の蕪村の画風を継承し近江蕪村と称された。文化7年、77歳で死去した。
滋賀(09)-画人伝・INDEX
文献:近江湖東・湖南の画人たち、近江の文人画家、近江の画人たち、近江の画人