
橋本青江「山水図」
橋本青江(1821-1898)は、大坂船場で資産家の娘として育った。画を岡田半江に、書を篠崎小竹に学び、門人を抱えて一家を成し、幕末から明治初期の大坂で活躍した。代表的な門人である河辺青蘭によると、当時は、東に奥原晴湖女史、西に橋本青江女史と呼ばれるほど評価が高かったという。
また青蘭によると、青江は描きたい絵を描き、注文によって売り絵を描くことは好まず、人気のあった青緑山水はあまり描かず、水墨や淡彩の作品を多く手掛けたという。後半生は息子とともに名古屋に移り、その後京都に暮らす娘のもとに行き、最後に大阪に戻ったが、晩年は経済的に恵まれず、孤独と貧困のうちに大阪市福島で世を去ったという。
青江の娘・青蘋(1867-不明)は、母に画を学び、母とともに内国勧業博覧会に出品するなど画家として活動し、明治35年刊の美術番付には名前が掲載されているが、昭和6年に刊行された青蘭の手記によると、その頃には青蘋は京都に住み、画業は続けておらず、その後の様子はわからないという。
橋本青江(1821-1898)はしもと・せいこう
文政4年生まれ。大坂の人。船場の生まれと伝わっている。名は瑩、字は紫玉、号は福寿菴主。画を岡田半江に、書を篠崎小竹に学び、石橋雲来、森琴石らと交流した。夫の芳谷、娘の青蘋も画を描いた。明治15年から21年にかけて岡山県児島(現在の倉敷市)の製塩業を営む資産家・野崎家をたびたび訪れ親しく交流し、当主の娘に画を教え、作品を多く制作している。明治20年代は大阪市東区瓦町一丁目(現在の中央区)に居住していた。明治38年、78歳で死去した。

橋本青蘋「山水図」(墨花研雨書画帖より)
橋本青蘋(1867-不明)はしもと・せいひん
慶応3年生まれ。大坂の人。橋本青江の娘。名は總子。画を母に学んだ。明治23年第3回内国勧業博覧会に母・青江、青江の門人・河辺青蘭とともに出品。明治35年刊の美術番付『古今名家新撰書画一覧』の「閨秀戯墨」の項に、奥原晴湖、上村松園、河辺青蘭らとともに青蘋の名も掲載されている。後半生は不明。
大阪(81)-画人伝・INDEX
文献:サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、江戸時代の女性画家、大阪の日本画、女性画家たちの大阪