木村蒹葭堂(1736-1802)は、北堀江瓶橋(現在の大阪市西区)で代々酒造業を営んでいた家に生まれた。通称を坪井屋吉右衛門といい、巽斎などと号したが、新造した書庫の名を「蒹葭堂」としたことから、蒹葭堂と呼ばれるようになった。
幼いころから画事と本草博物学に関心を抱き、5、6歳の時に大岡春卜について狩野派を学んだといい、また父の友人の家に客居していた柳沢淇園の粉本を模写し、のちに親しく交流した。12歳の時には鶴亭から沈南蘋風の花鳥画を学び、13歳の時に柳沢淇園に伴われて池大雅に入門して本格的な画作を学び、一生を通じて師と仰いだ。
また、本草学を津島桂庵、文学を片山北海に学び、北海が盟主をつとめていた混沌詩社の幹部としても活躍する一方で、戸田旭山と「物産会」を興した。さらに黄檗山萬福寺の大成禅師について禅も修めた。
古今の珍品を多数収蔵した大コレクターとしても知られ、自らも博学多識で物産学の造詣は特に深かった。その収集した詩文書画、書籍地図、標本、器物の閲覧を求めて全国から学者、文人、画人たちが次々と訪れ、蒹葭堂宅は文化サロンの様相を呈していたという。
蒹葭堂宅の来訪者は『蒹葭堂日記』に記されているが、その記述から当時の大坂画壇におけるあらゆる流派の画人を受け入れ、交流していたことがわかる。特に師の池大雅をはじめ、岡田米山人、田能村竹田、浦上玉堂らとは深く交友し、その親交を通じて近世大坂における初期南画家の育成にも指導的役割を果たした。
ところが寛政2年、造酒株を他人に貸したところ、その者が造石高の超過を犯し、名義が蒹葭堂のものだったことから罰を受け、伊勢長島藩主増山雪斎の好意で長島領川尻村に退いた。3年後に大坂に戻ったあとは伏見町で文房具店を開いたとも、堀江の旧地に帰ったとも伝わっている。
木村蒹葭堂(1736-1802)きむら・けんかどう
元文元年生まれ。北堀江に代々酒造業を営む家に生まれた。名は孔恭、字は世粛、通称は坪井屋吉右衛門。号は巽斎など。蒹葭堂は新造した書庫の名。幼少の頃から画を好み、大岡春卜、柳沢淇園、鶴亭、池大雅に学び、書籍、金石、博物標本など収集家としても名を知られた。池大雅、岡田米山人、田能村竹田、浦上玉堂などとの親交を通じ、初期南画家の育成にも指導的役割を果たした。享和2年、67歳で死去した。
木村石居(不明-不明)きむら・せっきょ
江戸後期大坂の風流人。木村蒹葭堂の養嗣子、二世蒹葭堂。名は孔陽、字は世輝、通称は平井屋吉右衛門。号は石居、二世蒹葭堂。詩文書画を好み、なかでも墨梅を好んで描いたという。初代蒹葭堂同様に古器を好み、売茶翁の茶器なら千金を惜しまなかったという。一方で、収集した器を惜しげもなく使い、日月を定めて煎茶の会を催したという。没年は不明だが天保8年までの生存は確認されている。
八木巽処(1771-1836)やぎ・そんしょ
明和8年阿波生まれ。木村蒹葭堂の門人。名は廸、字は孟率、通称は兵太。号は巽処。蒹葭堂の支援を受けて高麗橋4丁目に開塾して儒学を教授した。書画をよくし、おそらく蒹葭堂の影響で南宋画を学び山水花卉を得意とした。森川竹窓の妻・芝蘭の妹永仙を妻とした。永仙は美人画を描く画家だったという。一方、古法書、金石、文房筆硯の鑑定にも優れた。蒹葭堂の号「巽斎」から一字もらっていることから学統の継承をうかがわせる。門人に藤井藍田、金子雪操らがいる。天保7年、66歳で死去した。
大阪(24)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、大阪ゆかりの日本画家、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画