画人伝・大阪 日本画家 人物画

その美貌で全国的に知られた芸妓・富田屋八千代

富田屋八千代「白蔵主」

富田屋八千代「白蔵主」

富田屋八千代(1887-1924)は、大阪府中河内郡西六郷村本庄(現在の東大阪市)の農家・西田家に生まれ、その後、大阪市の宗右衛門町で置屋・加賀屋を営む遠藤家の養女となった。明治30年に妓籍に入ると、その美貌と山村流舞踊が評判となり、絵葉書(ブロマイド)のスターとして全国的にその名を知られ、東京赤坂の萬龍、京都祇園の千賀勇とともに日本三名妓と謳われるようになった。

大正初期、明治天皇崩御のため花街が一斉に休業した際、富田屋は芸妓に教養として画を学ばせるため当時大阪で人気を誇っていた菅楯彦を招いたが、八千代と楯彦は画の稽古を重ねるうちに相思相愛となり、大正5年、富田屋で引退兼結婚披露会を開催、大正6年に入籍した。

八千代は、結婚後も楯彦の弟子・生田花朝女と机を並べ、近藤尺天らに書や学問を学ぶなど研鑽を積み、歌も詠むようになったが、生来あまり丈夫ではなく次第に病に伏せるようになった。楯彦は、八千代の転地療養のため、大正12年に義母を伴い山陰旅行をしたが、その甲斐なく翌年、八千代は38歳で死去した。

掲載の「白蔵主」など、楯彦の画風を引き継いだ軽淡で瀟洒な小品を残している。

富田屋八千代(1887-1924)とんだや・やちよ
明治20年大阪府中河内郡西六郷村本庄(現在の東大阪市)生まれ。本名は遠藤美記。通称は美記子。宗右衛門町の置屋・加賀屋の養女となり、舞妓から芸妓となり、宗右衛門町の富田屋から出たため「富田屋八千代」と呼ばれた。美貌と山村流舞踊で全国的に知られた。富田屋の芸妓に画を教えるため招かれた菅楯彦と相愛となり、大正5年富田屋で引退兼結婚披露会を開催、小八千代が二代目八千代を継いだ。7年の結婚生活を経て、大正13年、病のため38歳で死去した。

大阪(113)-画人伝・INDEX

文献:サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、女性画家たちの大阪、島成園と浪華の女性画家




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