明治政府による強硬な琉球処分に、琉球の王族や士族などの旧支配者層が強く反発し、沖縄の廃藩置県は本土よりもかなり遅れて、明治12年に実施された。世相が乱れるなか、美術は衰退の一途をたどり、華やかだった琉球絵画の炎は消える寸前のところまでいき、わずかに細々と絵筆をふるう絵師たちがいるにすぎなかった。
王朝末期に広がりをみせた日本画系では、仲宗根真補(査丕烈)や比嘉盛清(1868-1939)がその画法を受け継いだ。盛清は、沖縄の風俗画を得意とし、王朝絵画の要素を受け継いだ最後の画家といわれている。明治後期になると、山田真山(1885-1977)が東京美術学校で高村光雲に彫刻、のちに日本画を学んで帰郷、戦後も活動を続けた。真山のあとに続く日本画家としては、挿絵画家としても活躍した金城安太郎(1911-1999)、美人画、仏画を得意とした柳光観(1912-1992)がいる。
比嘉盛清(1868-1939)
1868(明治元)年那覇若狭生まれ。雅号は華山。佐渡山安豊(毛永保)に師事し、沖縄の風俗画を得意とした。1908年に第1回の展覧会が行なわれた丹青協会の設立に参加、風俗画家として多くの作品を残した。現存する作品に、双幅の「琉球婚礼之図」「関帝王」「達磨図」「石臼修理の老人」「琉球男女之図」などがある。1939年、71歳で死去した。
山田真山(1885-1977)
1885(明治18)年那覇泉崎村生まれ。日本画家・彫刻家。漢学者・渡嘉敷兼礼の子。童名は真山戸。幼いころから画を好み、13歳で上京、工部学校、東京高等学校図案科で学び、東京美術学校彫刻科に入学した。高村光雲やその弟子の山田泰雲に師事し、彫刻の技を修めながら日本画も学んだ。特に山田泰雲には心酔し、自らの名字を山田に改めた。戦前は主に県外で活躍したが、戦後は沖縄伝統工芸の復興に尽力し、若い美術家たちを育てた。絵画の作品として「琉球藩設置図」など多数あり、舞台幕や旗頭の絵旗作成なども手がけた。彫刻においても多くの作品を残しているが、糸満市摩文仁の平和祈念堂に安置されている高さ12メートル、幅8メートルの平和祈念像はその代表作である。弟子に金城安太郎、具志堅古嘉がいる。1977年、92歳で死去した。
金城安太郎(1911-1999)
1911(明治44)年那覇生まれ。金城松の長男。幼いころから画を好み、16歳の時に「沖縄朝日新聞」に挿絵が掲載され、画家としてデビューした。1930年に山田真山に師事し、日本画と彫刻を学んだ。1933年に「琉球新報」の連載小説「熱帯魚」(山里永吉作)で本格的に挿絵画家として活動を開始し、生涯で32作の新聞連載小説の挿絵を描いた。1961年からは日本画に力点を移した。1999年、88歳で死去した。
柳光観(1912-1992)
1912(明治45)年生まれ。昭和7年京都熊野で土佐派を中心とした日本画を学び、美人画と仏画を得意とした。挿絵の分野でも山里永吉や石川文一らと組んで仕事をした。1992年、80歳で死去した。
沖縄(17)-画人伝・INDEX
文献:沖縄美術全集4、すぐわかる沖縄の美術、琉球絵師展