王朝末期になると、以前のような華やかな画風は影をひそめ、我謝盛保(毛世輝)、豊平良全(馬執宏)ら南宗画の流れを汲む画家たちが出てくる。さらに、廃藩置県後の沖縄は社会的に混乱し、庶民の生活も苦しくなり、その傾向を強くしていく。この頃に活躍した画家には、小波蔵安章(毛文達)らがいる。
蘭の花をよく描き「我謝の蘭葉(ランファー)」といわれた我謝盛保(毛世輝)は、能書家としても知られ、多くの書を残している。豊平良全(馬執宏)は、冊封使らから詩文を学び、南宗画的な素養を持ち水墨画を得意とした。小波蔵安章(毛文達)は、琉球王朝時代最後の絵師・佐渡山安健(毛長禧)に絵を学び、また自身も中国北京に留学し、そこで周少白から直接南宗画の指導を受けて帰国した。
我謝盛保(1787-1830)
1787(天明7)年首里金城村生まれ。唐名は毛世輝。筆山と号した。1809年官生として中国に渡り、北京で学んだ。絵画をはじめ、書や漢学にも通じ、著作に『毛世輝詩集』がある。蘭、竹、蓮を得意にし、蘭を好んで画題とし、「我謝の蘭葉(ランファー)」と呼ばれた1830年、43歳で死去した。
豊平良全(1786-1848)
1786(天明6)年首里儀保村生まれ。唐名は馬執宏。竹西、容斉と号した。1809年に官生に選ばれ、11年に国子監に入監し16年に帰国。帰国後は国学の官話詩文師匠や講談師匠を歴任し、28年には王世子・尚育の講談読上勤となった。さらに36年には日帳主取に任ぜられるとともに、大里間切大城地頭職となり豊平親雲上と称するようになった。その後も国学奉行や勘定奉行、西之平等学校奉行などをつとめた。水墨画を得意とした。1848年、62歳で死去した。
小波蔵安章(1832-1886)
1832(天保3)年首里寒水川村生まれ。唐名は毛文達。佐渡山安健に学んだ。1868年には冊封の謝恩使である富盛朝直(向文光)に随行して北京に行き、同地の絵師・周少白にも学んだ。帰国後に絵師主取となった。漢学にも優れ、著作に『霊夢記』がある。門人に安仁屋政伊、亀川盛軒、長嶺宗恭、義村朝義、喜友名安信らがいる。琉球処分の際には頑固党に属し脱清、1886年福州において、54歳で客死した。
沖縄(10)-画人伝・INDEX
文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展、すぐわかる沖縄の美術