琉球文化の黄金期といわれた18世紀は、琉球絵画の全盛期でもあり、中国に留学した絵師たちが活躍した。彼ら王府の絵師たちが描き続けたのは、中国の画題による山水、花鳥、人物などが中心で、琉球独自の風物や風俗などが描かれるようになったのは、18世紀末期になってからである。留学絵師ではないが、小橋川朝安(向元瑚)の御後絵制作の助手をつとめ、絵師主取となった泉川寛英(慎思九)は、庶民的な風俗画を得意とした。異国船が停泊している那覇港を背景に行なわれた大綱引きを描いた「那覇綱引図」などの作品が残っている。
寛英の長男・泉川寛郁(慎克明)と三男・泉川寛道(慎克熙)も絵師として活躍した。長男の寛郁は、絵師に登用されたが31歳で没した。三男の寛道は、家譜が現存していないため、生没年などの詳細は不明だが、作品に「うやんまあの図」(掲載作品)が残っている。「うやんまあ」とは、宮古・八重山に赴任した首里の役人の日常を世話する女性の呼び名で、この作品は琉球の風俗画のなかでももっともすぐれた作品のひとつとされている。
泉川寛英(1767-1844)
1767(明和4)年首里生まれ。唐名は慎思九。童名は真浦戸。はじめ寛信と名乗ったが寛英に改名した。19歳で絵師に登用され、その後4度絵師に任命され、33歳の時に絵師主取に昇進した。「慎姓家譜」によると、小橋川朝安(向元瑚)の加勢として、尚円から尚哲までの肖像画の控えを各二幅、数年後円覚寺で尚温の肖像画大小二幅の制作に加わっている。小橋川朝安の助手的存在であり、子弟関係でもあったと思われる。1844年、78歳で死去した。
泉川寛郁(1791-1821)
1791(寛政3)年首里崎山村生まれ。唐名は慎克明。泉川寛英の長男。1807年に絵師に登用され、以後絵師職を歴任するが、1821年、31歳で死去した。
泉川寛道(不明-不明)
首里崎山村生まれ。唐名は慎克熙。泉川寛英の三男。家譜が現存していないため、生没年などの詳細は不明だが、寛道の兄と妹の生年はわかっていることから、寛道の生年は1798~1801年であったと推測できる。
沖縄(7)-画人伝・INDEX
文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展、すぐわかる沖縄の美術、沖縄の芸術家