備中笠岡の浄土真宗の僧侶・津田白印(1862-1946)は、長崎派の鉄翁祖門の高弟・成富椿屋に南画を学び、南画家として活動するとともに、慈善社会事業家としても活躍した。明治24年、白印は本派本願寺ならびに奈良県知事より命じられ奈良監獄の教誨師をつとめた。その間に不良少年や孤児の補導を決意し、明治33年、郷里の笠岡の本林寺内に孤児収容施設の甘露育児院を設立、のちにこれを浄心寺に移した。この育児院は大正13年まで続いたが、白印はさらに私立淳和女学校を興して校長となった。これらの施設の経営は苦しく、白印は精力的に画を描き、かつ頒布につとめ、その収入をすべて学校の維持に投入したという。また、岡山県南西部を中心に白印風南画の後継者を多く育てている。
津田白印(1862-1946)
文久2年生まれ。幼名は峯丸、のちに明導。別号に白道人、吸江山人、黄薇山人、甘露窟主人などがある。備中笠岡の浄土真宗浄心寺住職・津田明海の二男。少年のころ豊前国で仏教学や漢学を修めるとともに、長崎派の鉄翁祖門の高弟・成富椿屋に南画を学んだ。のちに奈良監獄の教誨師となり、少年囚徒の教育を担当して彼らの社会環境を研究するうちに、慈善社会事業家になる決意を固めた。明治33年、孤児収容施設の甘露育児院を笠岡の本林寺に設立。育児院はのちに浄心寺に移るが、経営は困難をきわめ、自らの画料や浄財によって院を経営した。育児院は大正13年まで継続。この前年に私立淳和女学校を設立して女子教育にあたった。昭和21年、85歳で死去した。
笹井二洲(1900-1948)
明治33年小田郡山田村原生まれ。祖父は瓦焼屋。津田白印の高弟。後月郡高屋町高山寺に「寒山拾得」などがある。矢掛の洞松寺のついたてに「二洲」の落款がある。昭和23年、49歳で死去した。
小薮白江(1889-1963)
明治22年後月郡明治村花瀧生まれ。山口の小薮家の養子になった。本姓は酒井、名は幸吉。別号に不倒庵桃村がある。津田白印に南画を学んだ。小学校訓導になり後月郡聖園校などで勤務した後、笠岡高教諭や淳和女学校教諭をつとめた。昭和38年、75歳で死去した。
佐藤白華(1887-1963)
明治20年生まれ。新賀下長迫の人。津田白印に南画を学んだ。岡山県師範を卒業して教職につき、陶山尋常高等小学校長を最後に退職した。井上雪下主宰の平原歌会に入って短歌の研究に励み、余技として彫刻をよくした。昭和38年、77歳で死去した。
卜部京洲(1871-不明)
明治4年後月郡出部村生まれ。藤井蘇堂、津田白印に南画を学んだ。中国、米国を遊歴した。
岡山(21)-画人伝・INDEX
文献:岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山の近代日本画 2000、笠岡画人伝・俳諧史、岡山県美術名鑑