石野玉僲(1883-1949)は、福岡県の出身だが、金光教の布教のために訪れた大分県の久住町や大野町に長く住み、大野町の金光教教会長として活動を続けるとともに、江戸系の南画を描いた人物である。残された作品や活動履歴から、本格的な技法を学び、長く描き続けていたことが分かっているが、南画が盛んな豊後地方において、宗教家としてはもちろん、画人としても玉僲の名を知る人は少ない。
玉僲は、東京で川端玉章、岡田秋嶺らに師事し、谷文晁以来の江戸系南画の技法を本格的に学んでいる。堅実な技法で描き、洒脱な一面を併せ持つ魅力的な画風だが、豊後南画の表現様式との違いから、豊後地方ではあまり受け入れられなかったのかもしれない。また、交際範囲があまり広くなかったとも伝わっている。それでも、大正初期頃には、都甲九峯、田中蕉雨、衛藤半仙ら豊後の南画家とかなり親しく接しており、画会を共に開き、合作も多数描いている。
玉僲の終焉の地である大野町は、雪舟が「鎮田滝図」を描いた沈堕の滝で知られている。北画の大家である雪舟ゆかりの大野町に、北画色の強い玉僲が根付き、江戸系南画を描いていたことになる。地元の口伝によると、玉僲もそのことは意識しており、雪舟ゆかりの地でもっと北画系南画を広めようとしていたとも伝わっている。
石野玉僲(1883-1949)
明治16年福岡県遠賀郡戸畑生まれ。本名は監三。13歳の時に木村耕巌につき絵画の基本を学んだ。明治34年戸畑尋常小学校準教員に採用されるが、師木村耕巌の助言により画業を磨くため大阪に出て、中川蘆月、佐藤健四郎に師事した。同年大阪市明治尋常小学校代用教員に採用され、その後小中学校の図画教員として大阪、東京等各地を遍歴、その間、川端玉章、岡田秋嶺、荒木寛畝に師事し本格的な技法を学んだ。やがて金光教と出合い、大正11年から大分県久住町に住み金光教の布教を開始、昭和4年から教義についての再修業のため東京に移るが、それを終えた昭和8年からは大分県大野町に居を構え、以降同町の金光教教会長として活動を続けた。そのかたわら関西系南画が中心の大分県にあって江戸系南画の作画活動を行なった。昭和24年、66歳で死去した。
大分(27)-画人伝・INDEX
文献:孤高の絵旅人 石野玉僲、大分県立芸術会館所蔵作品選