日田豆田魚町の商家に生まれた広瀬淡窓は、幼いころから漢学・漢詩を学び、24歳の時に家督を弟に譲り、寺の学寮を借りて塾を開いた。塾は移転し、名を「成章舎」「桂林園」と変え、文化14年には、叔父・月化の隠宅である秋風庵の土地に桂林園の建物を移築し、新たに「咸宜園」を開いた。淡窓は晩年まで咸宜園で直接指導し、淡窓没後も末弟の広瀬旭荘、養子の広瀬青邨、さらに旭荘の長男・広瀬林外らが引き継ぎ、塾は明治30年まで存続、全国から集まった塾生は5000人とも言われ、近世日本最大規模の私塾となった。
咸宜園の咸宜(かんぎ)とは「すべてのことがよろしい」という意味で、門下生一人ひとりの個性を尊重する教育理念が塾名に込められている。また、入門時に年齢、学歴、身分を問わないとする「三奪法」や、月ごとの成績によって等級を付ける「月旦評」、寮の共同生活で全員に役割を与える「職任制」などの独自の教育システムを確立、儒学者や教育者、医者、政治家など多岐にわたる人材を輩出した。
淡窓は教育者であるとともに、儒学者、漢詩人でもあり、漢詩人としては『遠思楼詩鈔』など多くの名作を残し「海西の詩聖」と称された。菅茶山、頼山陽とともに江戸後期の三大漢詩人にも数えられる。咸宜園の塾生の中には、漢詩人と関わりの深い南画家たちの数も少なくなく、田能村竹田の子である田能村如仙、竹田門人の高橋草坪、帆足杏雨らをはじめ、竹田に私淑した僧・平野五岳、書画をよくした長三洲、筑前の吉嗣拝山らが淡窓のもとで学んだ。
また、淡窓のもとには田能村竹田、頼山陽、長崎の木下逸雲ら多くの文人墨客が訪れた。淡窓と竹田は、お互いの才能を高く評価しており、竹田は頼山陽に淡窓に会うように勧めたり、自分の息子の太一や、門人を咸宜園に入塾させた。二人の初対面は、日記などによると、文政2年、竹田が豊後日田の森荊田宅を訪ねた時だった。その後、竹田は文政8年にも日田に赴き、何度か淡窓と会っている様子が日記などに残されている。この年の8月、淡窓は大病に苦しんでおり、これを見舞ったのが最後と思われる。その際、淡窓は「田君彝来寓亀陰、以詩及画見恵、賦此以謝」という五言律詩を作っている。
広瀬淡窓(1782-1856)
天明2年日田市豆田魚町生まれ。豪商博多屋・広瀬三郎右衛門の長男。名は簡、のちに建、通称は寅之助、長じて求馬。字は廉卿、子基。別号に苓陽、青渓、遠思楼主人がある。幼いころから漢学、漢詩を学び、16歳で福岡の亀井塾に学ぶが、18歳で病のため退塾し、以後療養しつつ独学した。文化2年、24歳の時に病弱であったため家督を弟の久兵衛に譲り、自らは講学をもって身を立てることを決心し、文化2年、長福寺の学寮を借りて塾を始めた。これがのちに桂林園、咸宜園へと発展していく。文化14年に開いた咸宜園は独自の教育方針を打ちたて、全国から塾生が集まり、その数は5000人とも言われている。門生の中には維新時に大成したものも多い。『遠思楼詩鈔』『柝玄』『義府』などの著書がある。安政3年、75歳で死去した。
長三洲(1833-1895)
天保4年日田郡馬原村生まれ。長梅外の長男。名は炗、字は世章、通称は富太郎、のちに光太郎。別号に蝶生、韻華、秋史、紅雪、南陽がある。弘化2年、13歳で咸宜園に入門し、広瀬淡窓に師事した。嘉永2年には、この時の月旦評の最高位となるなど、同門の広瀬林外、田代俊次らとともに咸宜園の三才子と呼ばれた。咸宜園を出たあとは、大坂の広瀬旭荘の家塾の都講となり、京坂の地において名を馳せた。幕末には尊王論を説いて高杉晋作らと国事に奔走する一方、帆足杏雨、平野五岳らと親交した。維新後は太政官、文部大丞、文部省などの要職を歴任し、日本の近代教育制度の確立に尽力した。明治12年にすべての公職から身を引き、以後各地を遊歴して、書画に親しんだ。明治28年、61歳で死去した。
田能村如仙(1808-1896)
文化5年直入郡竹田村生まれ。田能村竹田の子。医師。幼名は太一郎、のちに太一。名は如仙、字は孝耟。別号に小花海がある。藩校由学館に学び、16歳の時に京都に出て小石元瑞に学んだ。翌年父竹田に従い日田に行き、帆足杏雨とともに咸宜園に入塾した。文政12年再び京都に行き、再び小石元瑞に医を学び、天保5年帰郷して由学館の医生講所の会頭となった。明治維新後は藩の医学寮の助教となり、家塾を開いて後進を指導した。明治29年、89歳で死去した。
大分(13)-画人伝・INDEX
文献:大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、三洲長光著作選集、廣瀬淡窓(高橋昌彦編著)